2012年5月4日金曜日

使徒的苦しみの中にある使徒的喜び

2012年5月4日(金) 第4回BTG聖会より

メッセンジャー:デイビー・カップ師(シティ・アット・ザ・クロス)


 私たちは使徒的ネット・ワークの中に属していますね。 ですから私たちは、使徒的苦しみの中の使徒的喜びを体験する必要があります。私たちは使徒的な者です。 ですから、パウロが私たちの型になります。

 ピリピ人への手紙3章7~10節 私たちは、キリストを知るためには、キリストの苦しみも知らなくては、 キリストのようにはなれないのです。パウロは、「キリストの復活を知りたい。」と、だけは言っていません。 パウロは、「イエス・キリストは命に蘇った。」と、だけ言っていません。 それを歴史的な事実として言っている訳ではないです。パウロは、私はキリストの復活の命を知りたい。 それに触りたい。そして一つになりたい。キリストを死から蘇らせるその霊が、私をも甦らせてもらいたい。 私のこの死ぬるべき体を、力付けて欲しい。そしてキリストの苦しみにもあずかりたい。 どのようにして?私たちはどのようにして、キリストを復活として知り、 また、キリストの苦しみにあずかることができるのでしょうか?キリストの死の様と等しくなることによって。 そのように聖書は言っています。
 もし私がキリストの死の様と等しくなるならば、キリストの死を体験し、復活も同じ姿になります。 私はキリストの死と、同じ姿にならなければならない。どのようにしてでしょう。パウロが言っています。 パウロはずっと前に救われました。ですからこれは洗礼のことを言っている訳ではないです。 ただ単に、イエス様が罪のために死んで、よみがえられたということを信じるだけのことではないです。 ここでパウロが言っていることは、「私は成熟したい、私は完全になりたい、キリストのようになりたいのです。」と、 パウロは言っています。ですから私はキリストの復活の命を知り、キリストのようになりたいのです。 と、パウロは言っています。ですから私はキリストの復活の命を知り、そしてキリストの苦しみの交わりに入りたい。 ゆえに私はキリストの死の様と等しくなりたい。












 ローマ12章 にありますように、「この世と妥協してはならない。」同じ姿です。その意味は、この世の形の中に、 入れられてはいけないということです。ここに水があります。この水は、ボトルの形になっています。 この水は、自分自身の定義を捨て去って、あきらめています。この水は、この形になりました。パウロは言っています。 私はキリストの死と同じ姿になりたいと。キリストの死は、私の人生を形作ります。 私のアイデンティティーを決定します。キリストの死です。そのキリストの死は、 私に永遠の命をもたらすだけではなくて、私自身を定義付けます。キリストの死と同じ姿になる。 その御言葉の中に、その代表行為の土台、また、根となるものがあります。
 ここで皆様に見ていただきたいものがあります。パウロはただ単に死の姿になりたいと言っている訳ではないのです。 ただ単に個人的な苦しみではありません。キリストの死の様と等しくなるということです。私たちはキリストの死をよく見て、 それが意味するもの、その性質を見ていきたいと思います。

 イエス様の死を考えていきましょう。誰か彼を殺しましたか? 聖書に書いています。「私の命を誰も取らない」と。 私は自分であげます。もし私たちが、キリストの死の様と等しくなりたいならば、私たちは誰かに殺される訳にはいきません。 私たちは本当に自分自身喜んで、自分の命を差し出さなければいけません。 私たちは自分が死ぬことを選び取らなければいけません。イエス様はおっしゃいました。 「誰も私の命を取ることはできません」と。「私は自分の命を差し出します。」皆様がキリストの死と等しくなるためには、 自分の命を差し出す、まではなれないです。苦しみだけではない。キリストの苦しみです。キリストの死です。 皆様に質問します。イエス様は自分のために死にましたか?いいえ。

 死というのは罪の結果です。罪の報酬は死です。一人の人の罪が、世の中に入ってきました。そして全ての人が、 死に至りました。それは全ての人が罪を犯したことになるからです。もし人々がイエス様を殺さなかったら、 どのようにして、彼は死んだのでしょう?罪が無いのに。考えて見て下さい。 もう一度たりとも彼は罪を犯した事はありません。ローマ兵は、彼を殺しませんでした。ローマ兵が、 彼が死んだかどうか、膝を折るために見に来た時に、イエス様はもう亡くなっていました。 十字架というのは、あなたを殺しません。拷問が殺します。十字架によって死にません。息ができなくなって死にます。 息をするための体力が残っている限り、生き続けています。

 十字架というのは、公衆の面前で人々をはずかしめるため、バカにするためです。そして拷問をするためです。 殺すためではないです。死ぬのは、もう力尽きて死んでしまいます。 イエス様は、呼吸が無くなるということはなかったのです。語り続けていました。そして、「完了した。」と、 言われました。「御手に私の霊をゆだねます。」と、言われました。そして霊を、御父様に返されました。 そして亡くなられました。誰も彼を殺しませんでした。罪さえも、彼を殺しませんでした。 十字架の次の日、ユダヤ人にとっては、特別な日なので、裸のまま十字架に吊るしたままではいけないので、 今から行って、膝の骨を折りましょう。なぜでしょう。膝を折ってしまうと、呼吸するために、 もう伸び上がれなくなるからです。それで、すぐに死んでしまいます。イエス様の所に来て、膝を折ろうとしました。 しかしながらイエス様は、もう亡くなっていました。人々がイエス様を殺した訳ではないです。 罪も、イエス様を殺しませんでした。


 皆さん、今私がしようとしていることは、どのようにして、キリストの死の様と等しくなれるかと言うことです。 いったい死とは何でしょう。イエス様は、他の人々のために死にました。キリストの体のために、 喜んで死ぬことを選びました。人々の罪のために、自分が代価を払いました。罪を知らない御方が、罪となり、 私たちが神の義とされるために。イエス様は言われました。 「私の命を取って下さい。私の義を取って下さい。私の33年の人生を取って下さい。彼らにあげて下さい。」

 もしキリストのようになりたいのだったら、パウロは、キリストの死の様と等しくならなければならない。 キリストの苦しみと交わらなければならないと言っています。ですから私たちも、他の人々のために死ぬ必要があります。 他の人々のために苦しむ必要があります。他の人々のために、私たちは生きなければならない。 私たちは自分の人生を、他の人々のためにあきらめなければいけない。他の人々のための何でしょう。 彼らの罪のためではない。彼らの義のためでもない。なぜなら、自分自身も罪を持っています。 「私の義を取って、私の兄弟にあげて下さい。」とは言えません。私は罪を持っているからです。 私が持っているものを、他の人々に分け与えることはできます。でも私はキリストの様でなければならない。 キリストの死と同じ姿になる。ですから私は行って死んで、私が持っている何かをあげなければならない。

 もし私が義を差し出す事ができないのであれば、私はこのキリストの体のために何を差し出すことができるのでしょうか? 私は彼らに、私の成熟を差し出すことができます。私を成熟の中に、 私を代表として、差し出す事ができます。 私という個人ではありません。私たち共同体、仲間です。85カ国、皆が一つに今なろうとしています。 そして、言っています。「神様見て下さい。私たちは死にます。彼らのために。」どのようにして私たちは死ぬのでしょうか? 私たちが教会を正しく建てる時にです。妻を愛する時にです。本当に皆が不従順の中にあっても、 あなたが従順に歩む事によってです。そして神様と語り合います。神様に言います、「神様どうぞ私たちを見て下さい。」

 私たちはキリストの死とは何か?ということを今見ています。喜んでキリストの苦しみを抱きしめている。 それはとても大事なことですね。なぜならば、私たちはただ単に、苦しみを好きなものではないからです。 キリストの苦しみです。目的はその背後にあります。神様は、私たちネット・ワークが、 他の教会とは全く違うものになってもらいたい。神様は私たちが他の人々から見たら、 受け入れられない様なアイデンティティー。しかしながら、 神が受け入れて下さるアイデンティティーを持つように願っています。私たちは他の人ができない様な、 献身と従順が求められています。私たちを細い道を通して導いておられ、キリストの苦しみに預る者となるように。 そして、それを私たちは自分の利益のためにするのではなくて、他の方々のためにします。 キリストの体全体のためです。支払わなければならない代価は高いです。本当に代価は大きいです。 労働は重たいでしょう。しかしながら、報酬は永遠です。そして本当に神様からの確信がやってきます。 もう本当に栄光に触れる事ができます。喜びはどんどんどんどん大きくなっていきます。 イエス様の目の前に喜びが置かれているゆえに、苦しみに耐えられました。 私たちは本当にこれから多くの苦しみを通るネット・ワークになります。しかしながら、本当に、 その喜びは大きいものです。一番喜んでいるネットワークはBTGです。 それは一番キリストの苦しみと一緒に交わっているからです。死にましょう!
 「彼の目の前におかれている喜びのゆえに。」と、
へブル12章 
で書かれています。 本当にもう他の人々に勝って彼は、喜びの油を注がれていました。誰が一番喜んでいたでしょうか?キリストです。 もう本当に、誰が一番苦しみに満ちた人生を送ったでしょう?キリストです。でも私たちは、 苦しみ無しに、喜びだけ欲しいですね。死ぬ事無しに復活に預りたいですね。私たちは自分の物を手放す事なしに、 王国だけ欲しいです。もう本当に契約無しに、祝福だけ欲しい。  パウロは言いました。私はキリストの死の様と等しくなりたい。なぜですか? なぜならば私は完全になりたいからです。成熟したいからです。私のためではなく、キリストの体全体のためです。 視野を持ち、信仰のある者が、この道を歩いて行く事ができます。兄弟姉妹と一つになって、立っている者だけが、 敵の攻撃を跳ね返す事ができます。この選ばれた民だけが、本当に高く神の召しにあがっていく事ができます。 多くの人は呼ばれています。しかしながら、少しの者だけが選ばれています。私たちの定められた運命です。 なぜ私たちがここにいるかというその理由は?私たちの問題の原因、私たちの葛藤の原因、この戦い、 戦争の原因は?2007年の5月の12日に、私たちは生まれました。私たちは使徒的ネット・ワークです。 そして私たちの型は、パウロです。パウロは死にたいと言いました。私たちも言います、私たちも死にたいです。 私たちはキリストのようにありたいです。私はキリストの死の様と、等しくなりたいです。 パウロはそのことを、良く理解していました。視野と信仰のある者が、この召しに従順に従っていく事ができます。 パウロはその事を良く悟っていました。パウロはキリストの体のために、自分自身が苦しむのだということを、 良く理解していました。

 コロサイ人への手紙1章24~25節 は聖書の中の本当に奥義の箇所です。
「ですから私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そしてキリストのからだのために、 私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。」
パウロは言いました、私はあなたがたのための苦しみを、喜びとしています。あなたがたによって、 苦しめられている訳ではありません。あなたがたのために苦しみます。これはめずらしいねえ。 私は自分の罪のために苦しんでいる訳ではない。私は主のために苦しんでいる訳ではない。コロサイ人、 あなた方のために苦しんでいます。彼らは別に、パウロに何か悪い事をしたという訳ではないです。 パウロは苦しんでいる。彼らのためにです。キリストの様ですね。

 イエス様は、「完了した。」と、言われましたよね。39のムチ打ち。トゲの冠。手と足と脇腹に。 パウロの言う所は、キリストの苦しみがまだ満ちていないと。なぜそのようにするのでしょうか。キリストの体のために。 パウロの体ではないです。イエス様のその肉体ではないです。キリストの体です。教会です。 キリストの教会の苦しみは足らないから、パウロがキリストの体のため、キリストの苦しみを受けます。 代表ですね。あなたたちは、苦しみたくないから、私が苦しみをもらいます。あなたたちは、死に方が足らないから、 私がもっと死にます。あなたたちが成長したくないから、私が成長します。あなたたちのため、キリストの教会のため。

 皆様が、他の人々のために、本当に苦しみたいという場所に来た時に、本当にキリストのようになる事ができます。 キリストの体全部が、このことをしなさいと言っている訳ではないです。彼らは私たちが何をやっているかも分からないです。 分かりたくない、知りたくない、変わらない、全然欲しくない。でも、キリストは私たちのためにしました。 私たちがまだ罪人であった時に、キリストは私たちを愛して死んで下さった。 皆さんはイエス様に死んでくれるように頼みましたか?全然知りませんでした。 全然かまわないでした。自分の事やっていました。何がイエス様の動機付けになったのでしょうか? 人々がイエス様の事を何と考えたか、ではない。イエス様が皆を愛された愛のゆえです。 ですから私たちの動機付けは何でしょうか?私たちはこれから死んで、成熟して、彼らのためにやります。 イエス様に対する愛だけではありません。キリストの教会を愛するためです。キリストの体を愛します。 なぜパウロは苦しんだのでしょうか?

 彼はこう言っています。
24節「キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。 キリストのからだとは、教会のことです。」
 パウロはキリストの苦しみと、交わりを持っています。 キリストの死の様と等しくなっています。パウロは自分のためにやっているのではなく、彼らのためにやっています。 興味深いことに、アメリカの聖書では、脇に※が付いていてですね、 「私はその代表によって、たりないものを満たします。」 と、書かれています。 使徒的代表とは何でしょうか? 使徒的苦しみというのは、私たちが死の形へと注ぎ込まれたからです。この使徒的苦しみというのは、 他の人々のためです。この使徒的苦しみは、完成したキリストの働きが、まだたりない所を使徒的苦しみが満たします。 完成したのに、なぜたりないのでしょうか?イエス様はイエス様の分をして下さいました。 でもキリストの体、教会の分まだたりない。イエス様の分は、完成しました。イエス様はキリストの体の頭です。 だから体の分は、まだやっていない。でもほとんどの体、やりたくない。 だからパウロは、やりたくない人のため、私が代表によってします。ですからパウロは言いました。 私はあなた方のために苦しみます。私たちは彼らのために、正確な教会を建てます。私たちは強い結婚関係を、 彼らのために作ります。私たちはお金に対する愛を、彼らのために捨てます。彼らはお金を愛するかも知れない。 でも私たちは彼らのためにします。本当にキリストに似てますね。彼らに感謝されなくても、とにかく私たちはやります。 彼らが私たちを憎んだとしても、私たちはやります。私たちを迫害しても、私たちはやります。 私たちが十字架に架けられても、私たちはやります。イエス様はそうして下さいましたね。 彼らはイエス様を殺そうとしました。私を殺す事はできません。あなた方は私を殺そうとしているのだけど、 私は自分で命を差し出します。彼の弟子たちは、皆逃げてしまいました。イエス様は彼らのためにしました。 皆様も裏切られるでしょう。皆様から逃げて行ってしまうでしょう。悪霊に憑かれていると言われるかも知れません。 皆様の事を何か悪く言われるかも知れない。一人ぼっちにされるかも知れない。 ナザレから何か良いものが出ようか。BTGから何か良いものが生まれるだろうか?そんな真中にあっても、 私たちは進み続けます。彼らのためにです。


 もしキリストのようになりたいならば。クリスチャンでありたいなら、もう気にしないで下さい。 でもキリストのようになりたいのであるならばです。
 コロサイ人への手紙1章28節
「わたしたちはこのキリストを宣べ伝え、知恵をつくしてあらゆる人を戒め、 あらゆる人を教えています。それはすべての人をキリストにある成人として立たせるためです。」
英語では、「すべての人を、完成として差し出すためです。」
と、あります。全てが完成になるテクノロジィーは、代表行為です。 私はあなたのために苦しみをもらって、あなたの足らない場所を、キリストの苦しみで満たして、 全ての人の完成を、キリストに差出します。誰かがそれをしなければならないのです、終わらせるために。 神様はもうずっと待たれていると思います。誰かがキリストのようになるのを。一人の個人ではない、一人の人です。 一つのグループの人です。神様は、誰かが本当に終了地点にまで行くのを待たれています。 誰もやらなかったことをするならば、神様にその成し遂げる群れを、差し出したいと思います。 このことを私たちは語っています。その様なことを、私たちは今習っています。 パウロはそれを理解していました。私はあなた方のために苦しみます。あなたがやらないことを私がやって、 そしてキリストの欠けている所を満たすのです。私たちはそれをやります。私たちは神の言葉を、 神に向かって差し上げます。あなたが私たちにできると言われました。あなたの御言葉の中にあります。 パウロはしました。アブラハムもしました。モーセもしました。イエス様もしました。 どうぞ私たちにそれをさせて下さい。代表行為は、聖霊によって生み出された願いです。 BTGの心、深くに与えられました。聖書的な機能性を持って。神の前に、それは他の人々のために。

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