2013年5月28日火曜日

『神の主権の中に生きる』~コングレスの文化~



今回は、3月31日(日)の主日礼拝でのメッセージの内容です。
今年度の教会方針である、『神の主権の中で生きる』について、久松主任長老が礼拝をとりついで下さいました。




この教会で私が今必要だと思われているものを幾つか話をしたいと思います。まず、「神の主権の中に生きる」創世記2章19節 神はアダムを創られました。そしてあらゆる空の鳥、また、地の動物、這うもの、全てのもの、それには名前が付いていませんでした。神様は人間に対しては、アダムという名前を付けられました。でも、その他のものたちは、被造物は、人間が付けなさいと神様はおっしゃいました。そこでアダムが全て生き物に与える名前は、その名となるのであった。それはアダムが罪を犯す以前のスタイルでした。

今私たちは、このスタイルに生きなければなりません。今までは、神様が向こうから見ておられました。小さなサムエルが、神様に祈っている絵があります。これは罪を犯したスタイルです。けれども反対に、アダムの後ろから神様が見守っておられます。そしてアダムがこうだと名前を付けた時、神様は一切訂正なさらなかったです。それは、神様の心とアダムは一つだったからです。だから訂正する必要がなかった。全て生き物に与える名は、その名となる。これは神の側に立って生きるということです。これは本当に大事な事です。




 私たちクリスチャンはいつも、神様これはどうなんですか?ああこれはどうしたらいいですか?と、いつも聞いて、そして答えを得ようとして、いつも神様と顔を向き合った形でいました。これは本当に、弱いスタイルです。今私たちは、神様の心が分かっている者、神様の側に立って生きる者、ですから神様が何を考えておられるかが、いつも分かる者、そうだから悩むこともない、恐れることもないし、神様がこの地上でなさる時、これから色んな出来事が起こりますけれども、神と共に、神の側に立っているアダムにとっては、何もこの世の中で起こる出来事において、恐れることは無くなります。

 なぜなら神の心を知っているからです。神の側に立っているからです。けれども対峙する姿勢であったら、「神様どうしてこんな事が起こるのですか?」とこうなります。それは神様の心が全然分かっていないです。神様と私たちの関係が、これは豚だ!これはカマキリだ!と言える者であったら、この地上でこれから起こってくる出来事において、神がなさる時、私たちも同じことが分かります。分かるから何も恐れません。ああ、神様がなさっている。たとえそれが私にとって良いと思われる事であっても、悪いと思われる事であっても、同じです。

 
  コロサイ人への手紙2章14~15節 この14節は、前にもお話したように、この証書、私たちを責めて不利に落とし入れる証書というのは律法です。あなたはこうでなければならない。あなたはこういう罪を犯している。あなたはこの点で間違っている。いつも責められていました。責められている本当にその証書を、イエス様は十字架に付けて下さったから、もう私たちは責められるべき者ではなくなった。そしてもろもろの支配と権威との武装、これは悪魔です。またこの世の支配です。 
「その支配と権威とを解除して、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらし者とされた。」 
 この凱旋という言葉は、大勝利を得て自分の国に帰って来る事ですね。もう本当に意気揚々と、勝って帰って来たという、その意味が凱旋です。私たちは今勝利して、キリストと共に凱旋行進している。だからキリストの勝利が私たちのものです。私たちはキリストと共に同じ場所にいる。これは言い変えれば、先程のアダムと神様との関係をあらわしている。

 コロサイ2章の御言葉はそう言っています。「キリストにあって凱旋し、」私たちはすでに、キリストと共に勝利の戦車に乗っている。そして最終到達地点に、帰還してその場所に帰るように、私たちは終りを告げる旅を進めている。だからこの終りの時代に、どんな大きな出来事がこの地上であなたの家庭に起ころうと、キリストにある凱旋行進をしている私たちにとっては、キリストの中に私たちはいます。これが神の主権です。これから起こる全ての出来事、その出来事は、神様がなしておられます。

 その中に私たちは、神と共に生きるのです。それが神の主権の中に生きるという意味です。世の人は、「ああ経済がもう潰れそうだ、ああまたヨーロッパで大変な事が、ああ日本で本当に失業率が高くなった。ああまた地震だ!」もう色んな事で一喜一憂し、右往左往し、本当の幸いを全く見出すことができないような状況の中にあっても、私たちはキリストにあって凱旋行進、彼と共に立つのです。何も恐れない。なぜなら私たちの価値観は、永遠という価値観だからです。


 神の主権の中に生きることを、最初にして下さった方はイエスキリストです。イエスキリストは、「父と私は一つである。」だから父なる神様のおっしゃることを、イエスは良い事も、悪い事も、そういう善悪を自らで判断することなく、33年の御生涯を父と共に生きた。だから彼は何も恐れなかった。死さえも恐れなかった。そして彼は父なる神様の主権の中に生きたのです。ですから父なる神様の主権を持っていた彼は、「癒されよ!」「嵐よ静まれ!」哀れみを持って人々に接し、人々がイエスキリストを捕まえる状況の中にあっても、彼は父なる神の主権を認め、十字架の道を歩かれたのです。つばきをかけられても彼は全く動じなかった。

 「泣くな女よ、お前のために泣け。」と、イエスは御自分が血まみれになる状況の中でさえ、人々の事に対して心を向ける事ができなさった御方です。それはなぜか?それは父なる神様の主権の中に、イエスキリストが生きて下さったからです。だからイエスも皆さんに言うのです。「私の主権の中に生きよ!」と、イエスはこれから恐るべき事を、この世界になさいます。我々はキリストの中にある者として、何も恐れない。それがこの教会の、今年1年のテーマです。

 「コングレスの文化」コングレス=神様の国です。神様の国の実体です。イエス様がおられた時は、イエス様は、「私は神の国から来た。」と、おっしゃいました。神の国から来た、彼はその支配者でした。そして世の中に、神の国の実体を表しなさいました。
 
 ですからコングレスとは、私たちがイエス様と同じように、この地上でその実体をあらわすのです。あなたを見たら神の国です。何と素晴らしい事でしょう。それを契約して下さったのです。約束して下さったのです。それが7月1日のやりとりです。だから私たちは真実に生きる者、正確に生きる者になるべきなのです。この世の腐ったような思想に、皆さんは価値観を置いているような事があってはいけませんよ。


 箴言3章7節「自分を見て賢いと思ってはならない。主を恐れて悪を離れよ。」

  だから、自分を賢いと思うことが悪につながるのです。でも皆さん私たちの肉は、いつも自分が賢いという思いに洗脳されています。その証拠にあなたの隣りの人に、「あなたはバカです。」と、言ってあげて下さい。これを本当に言われたら、むかつくでしょ。あなたの中に私は賢い部分があると思っているからです。そうです、だから聖書は言っているのです。

 これは、ソロモンが言っているのです。「自分を見て、賢いと思ってはならない。」命令です。でも皆、賢いと思っている。「私はあの人よりはましだわ。」それは、あなたがバカなのです。アーメンが一人もいない。なぜならそれは、あなたの価値観の中に、この世の中で生きている私にとって、「全ての人より私は劣っているとは思わない」という価値観です。それは比較社会の中でつちかった価値観です。

 ローマ人への手紙7章18節 パウロが言っています。
 「私の内に、すなわち私の肉の内には、善なるものが宿っていないことを、私は知っている。なぜなら善をしようとする意思は自分にあるが、それをする力がないからである。」 
 これは全ての人間に対して、代表としてパウロが語っている所ですよ。あなたの代理人として、パウロはこの言葉を言っているのです。その中で特に注目する点は、「私の内に。」パウロが言っているのですよ皆さん。パリサイ人の中のパリサイ人、エリート中のエリート。全ての博学な男ですよ。今で言ったら、東大ぐらいの者じゃないですよ。世界一の知恵と知識を持った人物。

 それが、「私の肉の内には、よいものが宿っていないことを私は知っている。」これがパウロの悟りです。これは全てのキリスト者が、悟らなくてはならない真理です。善なるものが宿っていないという意味は何ですか?「何にもよいものは、私の中には無い。」と、言っています。あなたはそれを本気で信じますか?肉の内にはです。本当に腐っているのです私たちは。


 コングレスの文化-1、「賢いと思ってはならない。」

  だからウッドロフ先生はこう言います。鏡の中に映っている自分を見て、「お前はバカだ!」と、毎日言いなさい。これがウッドロフ先生の、いつもよく語る言葉です。皆さん、今日からあなたはするべきです。まだまだあなたは自らの肉の内に、人よりは勝っている部分が少しでもあると思っていますよ。あなたはバカなのです。本当ですか?聖書はそう言っていますよ。だから僕は御言葉を言いました。

 箴言にも、ローマ人への手紙にも、「私たちの内にはよいものは一つも宿っていない。」とある。あなたの中にあるものは、本当に腐ったものばっかりだ。それが私たちの肉の性質です。これがアダムが罪を犯した時からずっと、全ての人類に受け継がれてきた性質です。コングレスの文化、それは毎日自分に向かって、お前はバカだと言いなさい。ここに深い真理があるね。これは何ですか?日々死になさい。肉に死になさい。肉は毎日死なないと、いつも生きるから。自我というものは、どんなに打ち叩いても、その日だけはしゅんとなるけど、その次の朝起きたら、「またやるぞー!」と言う肉が、あなたの内に、また必ず生きるのです。あなたは自分に、日々死になさい。この素晴らしい教えは、聖書の教えです。

 自分に対して、「お前はバカだ。」と、毎日言って、自分の肉に死ぬ人は、賢い人です。この話を聞いても、「はっ、するかそんなこと。」と、心で言っているなら、あなたは本当のバカです。でもバカじゃないと思っている所がバカなのですよ。


 コングレスの文化-2、今日から私は皆さんに、コングレスの文化の一つとして、礼拝、または集会の始まるまでの時間に、ソングリーダーは、礼拝が始まる時間の1分前から、1分間メロデイーを流して下さい。ここに来てからそれまでの時間は、必ず誰かと、関係を築くため、色んな人と話し合いましょう。これは私がトリニダードに行って、もうビックリしたことです。向こうが例えば8時30分の始まりの礼拝としたら、30分経っても全然始まらない。もう皆ぺちゃくちゃぺちゃくちゃ、そしてそれも本当に、その中身は、「ねえ、玉ねぎあそこは安かったわよ。」そんな話じゃない。「1週間あなたはどんな事があった?ああこの間あの話していたねえ、あれはどんな風になったの?」色んなことでお互いを気遣い励まし合う、そういう関係を礼拝が始まるまでする。イスに座ってただ祈る宗教的姿勢を、私も止めます。キリストにある関係を築くために交わって下さい。

 だから語るということは、日本文化を打ち破る事なのです。皆さん、日曜礼拝しか来ない人は、交わる時があるのですか?身体として、私たちが本当に色んなことを気遣い、お互いが家族として助け合い励まし合う。そういう機会が、1週間に1回しか来られなかったら、そうないでしょう。だったらこの日曜日の集会の時だけは、特にそういう関係を築く話し合いをしましょう。日本人は無口です。これは情けない文化です。だから夫婦が何を考えているか分からなくなるのです。親子の関係も、ただ必要な言葉だけ、「寝ろ!」「起きろ!」「朝ご飯や!」「勉強したのか!」これは交わりじゃない。その子の気持ちや、その夫の、今日起こった出来事がどんな事なのか。また、妻が今どんなことを考えているのか。沢山話の時間がありますよ。

 勉強や仕事ばっかり、何の家族を作っているのですか?だから日本の文化を打ち破って、コングレスの文化は、もういやでも語る。この文化をつくり上げていく努力をしていく。あなたの肉の性質は、ろくでもない性質です。あなたの肉の性質は、自分を守るための保身の性質です。犠牲をしなさい。愛しなさい。愛するとは、そういうことです。夫婦は考えが一つです。相手の気持ちが分かっています。相手の心が分かっています。これは私が完全だから言っているのではない。これは教えられたことを、私も実行するために、皆さんに語っているのです。やりましょう一緒に。

 顔と顔を合わせる。目と目を向き合う。こういう文化をつくる。日本人文化を捨てる。私たちは日本人じゃない、神の国の民です。中身は全然違う、神の国の文化です。語るということは、本当に努力がいるのです。チャレンジしていますよ。あなたは変わらなければならない。あなたはコングレスの文化の人です。神の国の実体です。イエスはいつもおしげなく語られました。あのサマリヤの女のために。時間も体も言葉も使って、一人の人が救われるために。この罪人の女を救うために、どれだけの犠牲と努力が要りましたか。イエスは体を持っておられたあなたと同じ人間ですよ。あなたは妻のために、どれだけ犠牲しているのですか?


 コングレスの文化-3、礼拝の時、手を挙げる。これは形だけの人が一杯います。

 創世記28章12節

「時に彼は夢を見た。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使いたちがそれを昇り降りしているのを見た。」
  すなわち天と地がつながっていた。ですから手を挙げるということは、天と地をつなぐという意味です。これは神の臨在を求めるということです。16節、ヤコブは眠りから覚めて言った。
「まことに主がこの所におられるのに、私は知らなかった。」 
昇り降りしている夢を見た時に、そこには神様がおられたのです。すなわち神様と関係を持っていたのです。交わっていたのです。手を挙げるということは、手を挙げるという行為じゃなくて、これは神の臨在の中に入っているパターンなのです。17節、そして彼は恐れて言った、
「これは何と恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ。」
天からの資源が流れて来るのです。天からの資源、栄養物によって、あなたという人はこの地上で、確信を持って生きることができるのです。世の中からの栄養物は要らないのです。心の食物は上からしか来ません。あなたはそれをもらわなかったら、肉で生きなければならないです。だから肉の顔をしているのです。だから愛する兄弟姉妹、私たちが礼拝の時、手を挙げるのは、これはコングレスの文化なのです。神の臨在によって生きる。これが私たちのパターンです。

 最後に、ソングリーダーの人は、「主に栄光を帰して、手を叩きましょう!」と、言って下さい。そうしたら、「神様は素晴らしい!」ということで、手を叩くことによって、神様に栄光を返す行為をするという意味で、皆さん捉えて下さい。

 もう一つは、「主に栄光を帰して、礼拝しましょう!」と、ソングリーダーが言ったら、礼拝の意味は、異言で語るもよし、日本語で語るもよし、あなたの心からの言葉で、どちらでも礼拝を捧げて、声を上げて下さい。「礼拝を捧げましょう!」と、ソングリーダーが言っても、本当に一部の人しか語っていない。これは本当に、神に対する冒とくです。

 兄弟姉妹、全ての人が、神を礼拝しましょう。これがコングレスの文化になりましょう。だから4つ言いました。まだ一杯あるのですよ。でもここから始めましょう皆さん。イエス様は本当に柔和でしたよ。イエス様がおられたら、皆近付きたかったのです。あなたはそうあるべきです。あなたの表情が、あなたの雰囲気が、あなたのしぐさが、本当に暖かいものが出ていますか?それがキリストの霊です。私たちはそのような者に、もうなっているのです。だから今日学んだことにおいて、皆さんが実践して下さいますようにお願いします。


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