2014年2月15日土曜日

「収穫の準備をするための7つの原則」

2014年2月15日(土)のBTGセミナーより
メッセンジャー:デイビー・カップ師
          (ロングビーチ:シティ アット ザ クロス)




今朝私は3つの声明を出しました。1つ目、神様と罪人が出会う時に、それは、「来て見てみなさい。」という環境を生み出します。2つ目、収穫と集合は、私たちが出て行くというよりも、むしろ彼らが私たちの所にやって来るというものです。3つ目、収穫と集合は収穫のために整えられた人々というものが要求されているということです。それは私たちです。
 収穫の準備をするための、7つの原則を見ていきたいと思います。ヨハネの福音書4章からです。今朝の話を頭に置いておいて下さい。イエス様と井戸の所にいた女の話です。罪に対して、本当に向い合ったという話です。それによって、「来て見なさい。」という環境を生み出しました。そして彼らが来て見ている間、弟子たちは昼食を食べたいと思っていました。イエス様は、ペンテコステの日の収穫のために彼らを整えていました。彼らはまだ準備ができていませんでした。しかしそれを用いて、彼らを教えたのです。ですからそれを使って、私たちにも教えて下さっています。




  聖書の全ての祭りが起こらなければならない。過ぎ越しも、イエス様が十字架の上で死なれた時に起こりました。そして今は、種無しのパンの祭。それによって 私たちが清められます。種の無い者です。私たちは成熟します。それは起こっています。次の祭りは集合という祭りです。そしてその次の勝利の祭りです。トラ ンペットの祭です。そしてその後、家に帰ります。でもそのためには、全てが起こらなければなりません。ですからこれは、非常に重要なものです。私たちは、 本当に終わりをもたらしたい。最後の日の、本当に大収穫です。命の書の名前が全て、神の国に入らなければ、私たちは故郷に帰ることはできません。
 収穫のための準備の原則 NO1、収穫のための食物を、自分のためにしっかりと保っておくことは、最も重要なことです。私たちは必ず、霊的食物を確保しておかなければいけません。誰 も知らない食物を、皆さんはキープされていますか?これがイエス様が言われたことです。「私には、あなたの知らない食物がある。」と、おっしゃいました。 それによって収穫に、一歩踏み出すことができます。私たちの命の源というのは、普通の食物から得るのではないのです。霊的な食物を摂らなければいけないと いうことです。「神の御国は飲食ではなく、義と平和と喜びです。」弟子たちが町に食物を買いに行っている間に、「来て見なさい。」という環境が、本当に打 ち破られて起こったのです。サマリヤ人たちは来ました。彼らは自然の食物で満たされていたので、彼らのお腹の中にあるものが、何をしたいかというのを決定 させてしまったのです。神様が動いているのを知っていました。でも、もう昼食の時だから。神様が動かれる時には、私たちの肉のスケジュールを、めちゃく ちゃにされます。収穫が来た時に、皆さんが、お腹が空いていたらどうしますか。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。」と、 あります。そしてそのギリシャ語は、今も出ているという意味があります。これが私の食物です。ですからそれを持っていなければいけません。ですから収穫の ための霊的な食物を持っていることは、一番私たちにとって大切なことです。神の口から出る全ての言葉です。これが主の祈りの全てだったのです。「下さい、 私の日々の糧を。」イエス様は、「私は天から来たパンである。」と、言われました。私はそれによって養われます。神から、私の満足も、力も、命も、全て来るとイエス様は言われました。ですからそれを本当に、自分のものとして持っていなければいけません。
 ルツ記1章1節  彼らはどうして離れたのでしょう。飢饉があったからです。彼らはモアブへ行きました。そして二人の子供を生みました。一人目の名前はマロン、弱いという意 味です。二人目の名前はキリオン、病気がちという意味でした。どうしてでしょう。彼らにはご飯が無かったからです。飢饉があった時、しっかりと霊の食物を 持っていなければいけません。それがバプテスマのヨハネがしたことではないでしょうか。「私にはあなたの知らない食べ物、つまり野蜜とイナゴがある。」 と、彼は言いました。それで私は充分だと言ったのです。5節「マロンとキリオンのふたりもまた死んだ。こうしてナオミはふたりの子と夫とに先だたれた。」6節でナオミは、「主が彼女の民を訪れた。」ということを聞いたのです。「そして神が彼らに食物を与えて下さった。」ということを。私たちも同じように食物を持っていなくてはいけません。霊の食物です。イエス様は、「あなた方が知らない食物を私は持っている。」と、言われました。それが原則第1番目です。
 2番目の原則、収穫のために神の御心を行うために、私のお腹の中にある食物を、天のものとしっかり、神様の基準に合わせなければいけない。と いうことです。イエス様は、「私の父の御心を行うことが、私の食物だ。」と、言いました。皆さんの食物は何でしょう。神様の御心を行いたいという、その食 欲を生み出さなければいけません。なぜイエス様がゲッセマネのその祈りの中で、「私の思いではなく、あなたの御心がなりますように。」と、祈ることができ たのでしょうか?なぜなら彼の33年間の食物は父の御心を行う事だったからです。ですから最も重要なその瞬間、十字架に行こう!十字架に架かる三年半前、 サタンが彼の所に来ました。彼がお腹が空いている時に、荒野で何を言いましたか彼は?「あなたはお腹が空いていますか?あなたは神の御子でしょう。この石 に命令してパンになれと言ったらいいじゃないか。食べなさい。」イエス様は、「いいえ、私は自分の食欲を調整して、神様の御心を行うものと真っ直ぐにして いる。だから私はパンを食べることを拒絶する。あなたが知らない食べ物が私にはあるのだ。」そしてイエス様が弟子たちを訓練している中で、「私を食べなさ い。それは私の体です。それは私の血です。」皆さんの食物は何ですか。皆さんの好きな食物は何ですか?それは、「私を遣わした方の御心を行う。」事でなけ ればいけません。しかしそれは自動的に起こるのではありません。皆さん自身が、自分の食欲は何かということを、訓練しておかなくてはいけません。これが断 食の目的なのです。神様の御心を食べるための訓練をしているのです。私たちの霊の人の資源は、一つでなければいけません。神の御心を行うというものです。 これによって私たちは力を得るのです。収穫の時には、皆さんは力を付けていなければいけません。収穫のための力はどこから得ますか?神の御心を行うことに よって得るのです。もしこの私たちの食欲というものが、神様の御心を行うというものでなければ、収穫の時に、力は全くありません。
 エレミヤ書15章16節 見て下さい。「それは私の喜びでした。」と、あります。そして、「私の楽しみでした。」ですから私が神様の御心を食べる時に、私たちは喜びを得ます。どうして喜びが重要なのでしょうか?
 ネヘミヤ記8章10節 最初のことは、私はあなたの御言葉を食べ、それは私の喜びとなったとあります。「さらにネヘミヤは彼らに言った、行って上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者には、ご馳走を送ってやりなさい。なぜなら今日は私たちの主のために、聖別された日だから、悲しんではならない。」どうしてでしょう。「主の喜びはあなたの力」だ からです。何が私の力でしょう?喜びです。どこから私はその喜びを得るのでしょう?あなたの御言葉を食べること、それが私の喜びになりました。収穫のため の力は、彼の御心を行い、食べることによって得るのです。神様の言葉を食べると、私は喜びを得て、そしてその喜びは力へと変えられるのです。そして終わり の日が来るまで、この収穫のために働き続けることができます。それで弱くはなりません。力が無くなることはありません。私は神の御心を食べます。そして力 を見つけます。この原則は、聖書中にずっと載っています。ダニエルも、シャデラク、メシャク、アべデネゴも、彼らは食物を変えました。そして彼らは残りの 者たちよりも、十倍も優れていました。ですから皆さんも食べる物を変えて下さい。それをしっかり調整して下さい。
 ヨブ記23章12節「私は神のくちびるの命令から離れず、私の定めよりも、御口の言葉を蓄えた。」英語の聖書では、「毎日のパンよりも、神様の口から出る命令をもっと愛した。」と、あります。私の今言っていることを皆さん分かりますか?皆さんの食べたい食欲を変えているのです。牧師先生方、信徒たちの食欲を変えて下さい。私を遣わした父の御心を行うことが、あなたの食物だということを教えなければいけません。
 エ ゼキエル書3章1節 彼はわたしに言われた、「人の子よ、あなたに与えられたものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。」2 節 そこでわたしが口を開くと、彼はわたしにその巻物を食べさせた。3節 そして彼はわたしに言われた、「人の子よ、わたしがあなたに与えるこの巻物を食 べ、これであなたの腹を満たしなさい。」わたしがそれを食べると、それはわたしの口に甘いこと蜜のようであった。神様はエゼキエルの食欲を変えていたのです。エゼキエル、あなたの前にあるものを食べなさい。分かりました。それはおいしいです。蜂蜜のようです。
 それはエバの問題でした。神様の言葉、神様の御心、それで彼女は満足するべきだったのです。私たちは、生まれた時からずっと、自分のしたいことをして生きて来ました。しかし私たちがイエス様に合った時に、「私の肉と、私の血を飲まなければ、わたしと何の関係もありません。」と、イエス様はおっしゃったのです。自分たちの食欲を、もう一度変えることを学ばなければいけません。
  今現在の神様の語られている言葉と意図を、信徒たちがやりたいという、その食欲がなければ、神様の御心というものは破棄されてしまうことになるのですね。 マナを好きになることを学びなさい。毎日それを食べなさい。神の現在の語りかけです。私たちの食欲が正しくなければ、神の目的はだめになってしまいます。
 ルカによる福音書5章37節 私 は地上で新しい事をしたい。改革をもたらしたい。新しいぶどう酒を開放したい。しかし新しいワインを、古い皮袋に入れることはできない。なぜならそれは皮 袋を破ってしまうからです。そしてワインが流れてしまいます。神様の目的が流れ出てしまいます。ですから新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れなければいけ ません。新しい考え方、新しい構造にです。それがマタイです。新しいぶどう酒を、新しい皮袋に入れることがゴールではありません。ゴールは、新しいぶどう 酒を飲むことなのですね。改革の教えを聞くだけではなくて、使徒的なことを教えるだけではなくて、ルカ39節で言っています、「まただれも、古い酒を飲んでから、新しいのをほしがりはしない。『古いのが良い』と考えているからである。」マ タイの福音書には39節はありません。私には新しいぶどう酒がある、新しい皮袋に。安全、大丈夫。でもそこからは見えません。どうしてでしょう?なぜなら 私の食欲が、古いワインにむいていたからです。それがこの聖書が言っている所です。聖書を開ける度に、古いぶどう酒を味わって、神様はそれ程に酔わせて下 さった。うーん、おいしい。誰も古いぶどう酒を飲んでから、新しいぶどう酒を飲みたいという人はいません。なぜなら古いものはいつもいいと皆が言うからで す。それはもう捨てて下さい。そうすると新しいものしか入って来ません。食欲を変えて下さい。すると間もなく、好きだな、これは、という風になって来ま す。もし両方のものを一緒に飲むならば、いつも昔のものを欲しいと思ってしまいます。なぜならそれを飲みながら成長したからです。ですから心地良いのです ね。ですから昔のものを全て取り除かなければいけません。
 1番目は、霊的な食物を持っていなければいけない。2番目は、神様の御心を行うという食欲に変えなければいけない。3番目、収穫の目的は完成の場所まであなたの食欲を変えなければならない。つ まり、収穫のゴールは収穫ではありません。収穫のゴールは完成です。私は乾くと十字架の上で言われたのはなぜでしょう。まだ完成していなかったからです。 主と顔と顔を合わせるまで、私たちは決して満足しません。ですから私たちの食欲というものを矯正しなければいけません。完成の所で、私たちは始めて満足す るのです。完成したという時期が来なければいけません。これが黙示録で言っている所です。7番目の天使の声が出る時、その時には遅れはもはやありません。 神の奥義は全て完成した。それが起こります。それが起こるまで、私たちは満足してはいけません。死ぬまで私たちは休息をしません。完成するまで、私たちは 満足しません。
 4番目、信仰が欠けるということは盲目を生み出し、収穫を見逃してしまいます。
収 穫は皆さんのために待ってはいません。収穫までまだ4ヶ月あると、そう言ってはいませんか?信仰が問題です。口から出ることは、あなたの信仰を明らかにす る。ですから私たちの口が、まだ4ヶ月あるというその宣言が、この完成させることを止めさせてしまうということを、私たちは認識していなければいけませ ん。終わりに向かうその動きを、止めてしまうことになるのです。ですから誰かが立ち上がって、「今がその時だ!」と、言わなくてはいけません。信仰によっ て、見える所によらず、感覚によらず、神様が言われたから。まだ4ヶ月あると言ってはいけません。
 箴言18章21節「死と命は、舌の力による。」と あります。神は言われました。私は完成したい。ただ信仰の人が必要なのだ。信仰のある誰かが必要なのだ。父の家を導く人が、国を離れて、自分の親戚も離れ て、そして私が示す道に。聖書は、アブラハムは信仰によって従ったと言いました。私たちには箱舟を建てるグループの、一団の人が必要なのです。そして洪水 の時の箱舟を、誰も見たことがありませんでした。誰もその洪水を見たことがありませんでした。どうして箱舟を作らないといけないのか?なぜなら神様が言わ れたからでした。ですから聖書では、ノアは神に言われて、信仰によって、箱舟を作りました。「でもまだ4ヶ月もある。」私たちの収穫は無くなってしまいま す。
 ぺテロ第二の手紙3章3節「まず次のことを知るべきである。終わりの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、」自 分たちの食欲、自分たちの欲望に従って、彼らは何と言いましたか?「私の父の時代から、何もかも一緒じゃないか。」彼らは私たちの世代で、完成は可能だと いうことをあざけて笑っているのです。キリストの教会が立ち上がって、完成させるというそのことを、不可能だと言って笑っているのです。全てのものは今ま でと同じように続いていくだろう。なぜなら彼らはまだ4ヶ月あると言っているからです。アブラハムは、まだ4ヶ月あるとは言いませんでした。「今が時間だ よ、奥さん。」何が起こったでしょう。イサクが生まれました。彼は彼の信仰が、弱まらなかったからです。自分の自然の目で見える所によって、できないとは 言わなかったのですね。神様が言われたから。来年のこの時期、子供が生まれる。彼は目を上げました。彼女も目を上げました。そして彼らの収穫を見たのでし た。あざける者たちによって、私たちの完成という思いを、閉ざさせてはいけません。まだ4ヶ月だと言ってはいけません。今です。原則の4番目は、信仰がな いということによって、盲目になってしまい、そのことで収穫を失ってしまうということです。
 5番目、収穫のための信仰を受け取らなければいけない。昨 夜の預言的な言葉が来るまで、私はこれを説教するとはあまり考えてはいませんでした。昨夜このメッセージを、ここで座りながら書いていたのです。これを私 は誰にも教えたことがありません。終わりのため、完成のための信仰をどこから得ますか?神の語りかけによってです。私は聞きましたそれを。それによって完 成に対する信仰を得て、私はそれを見ることができます。どうしてでしょう?なぜなら彼が語ったからです。話しました。去年の7月4日。「核の上で旋回せ よ。」そして多くの接点を持つことができました。私たちは完成させます。終わりましょう。完成させましょう。収穫、集合、ですからその神の言葉を私の心に 持つことによって、信仰が生まれて、何が起こったか分かりますか?私は目を上げました。そこに収穫がある。今までは見ることができなかった。まだ4ヶ月あ ると思っていた。でもあなたが語られたから。あなたの言葉を聞くことによって、信仰が生まれたから。そうだ、じゃあやりましょう。できます!もう収穫があ る、見て下さい。どこですか?もう問題ばっかりだ。津波が来る。経済の破綻。同姓結婚。私が見るものは、暴虐ばかり。目を上げて下さい。信仰を得るまで は、目を上げることはできません。イエス様は言われました、あなたはまだ4ヶ月あると言っているが、しかし私はあなたに語ろう。そして彼が語る時には、何 が起こると思いますか?信仰が来ます。私について来なさい。網をほったらかして、ついて行きます。どうやってですか?彼らの先祖の先祖たちも漁師でした。 しかしイエス様から出たたった一つの言葉によって。ペテロとアンデレは全てをほったらかして、キリストに従いました。どうやって?信仰によってです。どの 様にして信仰を得ましたか、イエス様が彼らに語られたのです。もしあなたの食物が御言葉だったら、それを食べると信仰を生み出すことができるのです。私た ちは今、聖霊が語っていることは何かということを、聞ける者でなければいけません。7回黙示録の中で書いています。イエス様は言います。耳のある者は、霊 が語ることを聞きなさい。今日のための信仰は、イエス様が今日語られていることによって生まれます。ですから私たちは、収穫のための信仰を受け取らなけれ ばいけません。どのようにしてですか?霊が私たちに、今語っていることを聞くことによってです。
 6番目、信仰によって引き上げられた視野は、収穫の畑を見ることができる。収 穫を見る前に、まず収穫の畑を見なければいけません。その中に収穫があります。どうやってその収穫の畑を見るのでしょう?信仰によって、私の視野が引き上 げられなければいけません。これが、イエス様が言われたことです。「あなたの目を上げなさい。そして畑を見なさい。」そしてその畑は複数形の畑です。もし 彼が収穫を見なさいと言ったのなら、彼らは色んな所を見たと思います。「畑を見なさい。」神様があなたを置かれた、背景の中でそれを見なさいと言われてい ます。それはあなたの目の前にあります。神様があなたを置かれたその畑を見なければいけません。神様は収穫を見なさいとは言いませんでした。目を上げて、 あなたの目の前にある畑を見なさい。それが収穫で満ちている。それを見なさいとおっしゃったのです。あなたの御近所さんを。でも私は近所の人と話さない し。私はとってもプライベートが好きだから。なぜなら長い間プライベートという食物を食べていたからです。それではあなたの食物は、あなたを遣わした方の 御心を行うものではないですね。あなたの食物は文化でした。あなたの食べ物は自分に心地良いものでした。食物を変えなければいけません。信仰を受け取りな さい。主を聞きなさい。そして目を上げなさい。そうするとあなたの畑は収穫で実っています。見て下さい、彼らはやって来ます。その畑は色づいています。白 くなっているのです。サマリヤ人の白いドレスで満たされています。信仰は私たちの目を引き上げさせてくれます。そして私たちの信仰を引き上げられた目は、 収穫がどこにあるかということを告げてくれます。
7番目、信仰によって、収穫の準備ができているのを見ることができる。信 仰は、ただ畑を見ることができるだけではなく、信仰は、もう刈り取る準備ができているというのを見させてくれるのです。そして信仰によって、一度も証をし たことのない近所の人々を見て、あなたはもう収穫の準備ができている、ということが分かるのです。そしてそれを刈り取ります。しかし信仰がなければ、まだ 4ヶ月ある。彼女のためにもう少し祈らせて。信仰はその収穫が、もう準備ができているというのを見させてくれます。そして船から踏み出して、そして彼女に 何か言って下さい。彼に何かを言って下さい。でも、彼らがもし応答してくれなかったら。あなたの問題ではありません。彼の問題です。彼らの収穫は、もしか すると最終的な裁きかも知れません。でも、それもあなたは刈り取ったのです。私たちの仕事は、従うことです。収穫の時には、蒔く者と刈り取る者が合わさる 時です。刈り取る者は、「もう行きましょう!」と、言います。そしてイエス様は驚くべきことをなさいます。信仰によって目を上げると、刈り取る者と蒔く者 は、一緒に働きをするのだと。どうしてでしょう?今だからです。収穫を見ることが、私たちを動かすのではないのです。私たちを収穫へと動かすものは、準備 ができているということに対して視野があるから、私たちを収穫へと動かすのです。美しい緑の田んぼを見て、誰も収穫の時だとは言いません。それはまだ時期 ではないということが分かるからです。まだ4ヶ月ある、そしてそこから離れて行きます。でもイエス様を聞くなら、私たちに霊が言ったことを聞くなら、そし て目を上げるなら、ただ収穫を見るのではなく、それはもう刈り取るまでになっているということを見ることができます。そして信仰によって刈り取る準備がで きていたら、そこに行って、その収穫の実を刈り取るのですね。ですから信仰によって引き上げられた視野というのは、収穫はもう準備ができている、というの を見ることができます。
コリント第二の手紙6章1節 「私たちは神と共に働く者としてあなたがたに懇願します。神の恵みを無駄に受けないようにして下さい。」神様はその恵みをあなたに下さったのです。その収穫のための資源と力を与えて下さいます。集合のために、BTGを無駄に受け取らないで下さい。どうしてでしょう、神様が言われたからです。コリント第二の手紙6章2節「私は恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確 かに今は恵みの時、今は救いの日です。私の聖書では、「見なさい、今が受け入れの時です。」と、書いてあります。これは目を上げると同じことです。「見な さい、今が救いの日です。」今が収穫のために畑が色づいている時です。教会はモアブに永い間いました。食物を探して旅をしていました。しかしナオミはある 時聞きました。神がその国を訪れていると。神はもう一度パンを与えているのです。今がその時です。
ルツ記1章22節 これは教会の美しい姿です。「こうしてナオミは嫁のモアブの女ルツと一緒にモアブの地から帰って来て、大麦の刈り入れの始まった頃、ベツレヘムに着いた。」彼 らは収穫の時に帰って来ました。大麦からパンを作ります。神様は彼らに、神の食物を与えていました。いつでしょう。収穫の時です。BTGの皆さん、私たち は目を上げなければいけません。そして神が私たちに語られていることを、聞かなければいけません。畑を見て下さい。それは収穫のために、もう白く色づいて います。7つの原則は、収穫のために私たちを整えるものです。神様は動いておられます。収穫はやって来ています。私たちの所へ。


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