2004年1月15日木曜日

ネオスとカイノス



    2004年1月 主日礼拝より
         メッセンジャー:久松政一牧師(クライストチャーチ主任長老)



マタイによる福音書9章17節
「だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋にいれはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れでるし、 皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう。」

ここで書かれています、新しいぶどう酒と書いてあるこの新しいということについて今日はお話をしたいと思います。

 新年ですね、新しい年が始まりました。
旧約聖書を見てみても正月という言葉が出て来ます。新しい年の新しい第1日目、 これは本当に大切なんですね。

ここで聖書の中で出て来た新しいぶどう酒と書かれている,この新しいという言葉の意味は、 実は、2種類あるのですね。
ここで使われている新しいと言う意味はですね、ギリシャ語を見ますと、ネオス(NEOS) という言葉がつかわれているのですね。
今は新しくても後には古くなると言う、変化すると言う意味での新しいと言う意味なのですね。

 又、出エジプト記には、新しい王が出て来たという言葉が書かれている所があります。
ですから今までの王とはちがう新しい王様が出たと言う意味ですよね。
しかし、この王様も何年かたてば新しい王様ではありません。
そのように私達はこのネオスという言葉が つかわれている新しいと言う言葉は私達にとって不必要かというと、そうではありません。これも大切な御言葉の一つなのですね。
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伝道の書 1章9節~10節 
ソロモンという王様が書いた書物です。「先にあったことは、また後にもある。先になされた事は、また後にもなされる。 日の下には新しいものはない。見よ、これは新しいものだと言われるものがあるか。それはわれわれの前にあった世々に すでにあったものである。」

 こう書かれてあります。ここに書かれていますように、日の下で、すなわち私達が生きているこの地球上で、 新しいというようなものは、本当は一つもないのだ。
それは以前にあったものであり、それの繰り返しだ。ということを、 ソロモンは言っています。
まさにその通りです。聖書が言うところの結論は、このネオスという言葉が使われている意味は、 私達は新しくてもいつかは消えて行く者、その様な意味で用いられています。

しかし、この年、私達のこの教会で、 本当に求めなければならないのは、やはり新しい人々です。新しい人達が大勢この教会に導かれて来られて、 イエス様を信じなさって救われる事は、この教会にとっては新しい事です。

皆さんネオスです。毎年同じ人数の教会であっては、 イエス様に申し訳ありません。
今年新しい人々が救われて来る事を信じる事は本当に大切な事です。
又、昨年までは、 命の存在そのものもなかったその人々が今年は生まれる、新しい命が生まれる。嬉しい事ですね。
いろんな、すばらしい、 新しい事がこの教会に起こる事はすばらしい事です。
夫婦間の問題が解決される事、又、永年わずらっていた病が癒される事、 これは、すばらしい事です。新しい事です。
神様が新しい事を私達にして下さる事を信じます。
しかし、こういう新しさだけで、私達が教会をもし進めて行くとするならば、それは非常に危険な教会になります。
 なぜかと申しますと、形に現れて来るものがすばらしくても、それは又、いつしか変化するものです。
もちろんこの新しさを求める事は良いことです。しかし、この新しさだけで私達は満足してしまってはいけないのです。



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 エペソ2章15節 の中に、新しい人とあります。ここで使われているギリシャ語はKAINOSこのカイノスという新しさは変化しない、 変わる事のない新しさなのです。
イエス様が肉体を持っておられた2000年前、当時、宗教家は、いろんな人々に、 いい教えをしていました。
けれども彼ら自身は、いい教えをするのですけれども彼らの行いが全くなっていなかった。
ですから人々は何とも言えない偽善的な指導者達に対して、非常な腹立たしさを持っていたわけです。
そして腐敗していったのです。今もそういうことが一杯ありますよね、皆さん。そういう時に、 イエス・キリスト様が現れなさったのです。
そして、30歳そこそこの青年であるイエス様がこの宗教家達が教える所の 教えとは違う、素晴らしい教えを、彼は人々に伝えておられた。

山上の垂訓も素晴らしいものでしたね。
けれどもイエス様はただ教えだけが新しかったのではないのです。
その教えに伴って、病人を癒されたり、 内面的に不安定な人を開放されたりして、すばらしい奇跡をまのあたりに、人々になさっていかれた。
その時に群衆は 「これは、全く新しい教えだ!」こう言っているのです。ここで、言われている新しいという意味は、内側の変革なのです。

もっと簡単に言いますと、ネオスという言葉は、具現化されるもので、ネオスになる前の内面的な新しい変化、 これをカイノスという言葉で使っているのです。
これが人間にとってどんなに大切か、私達は、そのことを知っています。

 又、ヨハネの黙示録の所では、新しい歌という言葉が書かれてあります。
これは、誰も歌ったことのない歌、 今まで聞いたことのない歌、それはどんな歌か?
それは贖われた者だけが歌う歌。
救われた者だけが歌う歌。 罪許された者だけが歌える歌。
そこには、目に見えない、内面的な、霊的なものが含まれているということを言っているわけです。 これは変化しません。
これは今までにありません。いつもこれは新しいのです。

Ⅱコリント4章16節
「だから私達は落胆しない。たとい私達の外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。」

 クリスチャンはどうして落胆しないのですか。
どうして失望しませんか?書いています。
たとえ私達の外なる人、 それは肉体です。
それは日々私達は衰えて行きます。それは仕方がありません。

しかしここに書いています様に、 内なる人は日ごとに新しくされていく。イエス・キリストを信じている者は、不思議な事に、同じ歌を歌い、 同じ御言葉を聞いても、何時も新鮮なものがやって来るから、喜びに満ち溢れるわけです。
同じ事をしていながら、 輝く事が出来るわけです。
これは、外側のネオスでは、絶対に得る事が出来ないのです。
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ソロモンは、全てのもの(ネオスというもの)を勝ち取った人物ですね。
にもかかわらず彼は、 この日の下で行われる全ての事において、新しいものは一つもない。
そして、空の空、一切は空である。空しい。
この世の中に、新しいものなどあるか?人は毎日その様なものを追い求めていくだけで、外側ばかりを追い求めても、 真の幸いは得ない。
結論として、ソロモンは、全ての事は言われた。
そして、全ての人に対して、明確に答えています。
「神に帰れ!」
と。これが、伝道の書の結論ですね。
 
 神が与えて下さる、私達の内側の変革というものは、これは、イエス・キリストを信じた者でなければ、 とうてい説明が付きません。
礼拝において、この世が与えることの出来ない喜びで満たされます。
いつも神様は、 この新しいものを、私に送って下さるのです。
この意味が、カイノスという言葉が使われているのです。
この新しい人というのは、イエス・キリストを信じた者にだけ与えられる、永遠に変わる事のない命なのです。
我々はそのすばらしいものをいただく事が出来るのですね。

又、 哀歌3章22節~23節 には、
「主のいつくしみは絶えることがなく、その哀れみは尽きる事がない。これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。」

又、 哀歌3章22節~23節 には、
「主のいつくしみは絶えることがなく、その哀れみは尽きる事がない。これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。」 

 朝ごとに新しい、神様の真実な思いを、私の内に注いで下さる。
この新しさ、これがなければ、 人は真に生きることが出来ません。
言葉を変えるなら、これは、永遠の命です。
神が与えて下さるものであります。
 私達の心の中には、一つの空洞があると有名な人物は言っています。そしてその心を満たす事の出来るのはこの世の 何者であってもそれは満たす事が出来ない。
 
 神よあなただけがその空洞をうめることができます。
と言っています。
私達の内側にあるこの空しさ、 このネオスというものにのみ心を止めて生きる人間の悲しさ、空虚感、人はなぜ生きるのか?この問題に対して、 哲学では答えられません。
宗教でも答えられません。それは聖書の言葉によってのみ、私達は得ることが出来る。 と、書いてあるのです。
これを人は皆求めているのです。

本当の幸せというのは外側じゃないのです。 物質的なものじゃないのです。
目に見える物じゃないのです。目に見えない、本当に与えられる喜び、 誰にもうばわれる事の無い、日々新しいと言われるこの祝福を、私達は求めているのですよ。
皆さんクリスチャンはね、 この喜びを神様が無代価で提供して下さっているから、あなたは、信仰生活を守られるのです

皆さん、 あなたの努力ではありません。これは新しい命を与えて下さる、イエス様からの力です。 目に見えない聖霊の力こそ本当の喜びなのですね。

聖霊の力こそ教会の力なのです。
神の力なくして、 人は真実な人間として生きられない。
皆罪人なのですから。
ああ、何と私達は、これを求めて来た事でしょうか。
今年の私達の教会は、ネオスを求めると共に、カイノスを求める教会となりましょう。
そして本当に、 聖霊の恵みに満ちあふれて、神様から下さる、日ごとの新しい命をいただく時に、人を許し、人の為に生きる事が喜びとなり、 人を愛する事が楽しみとなっていくのであります。
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神様は御言葉と聖霊なるお方です。
御言葉を語られたのがイエス様です。
又、御言葉そのものがイエス様です。
御言葉であるイエス様が、治れ!と、おっしゃったら、病気が治りました。
               静まれ!と、おっしゃったら、 湖がなぎになりました。
イエス様はおっしゃった通りに生み出されて行ったのです。
そうです皆さん、 神様の御言葉が語られたら具現化された形で、ネオスが出て来ます。
けれどもその根源の中には必ず御言葉が語られる時に 聖霊が働いてらっしゃいます。
聖霊が働いてらっしゃるから、私達は、新しく刷新されるのです。

本当にクリスチャンは宗教ではなく、良い事をする団体ではないのです。
神様が私達を愛して、命までかけて下さったればこそ、 その愛に触れた人間は、その愛を行って行きたくなるのですよ皆さん。

ああ、何と素晴らしい祝福された者でしょうか。
今年一年、私達は新しいネオスを求めると共に、新しいカイノスを日々私達はいただいて行こうではありませんか。

神様は今年新しい事をして下さいますよ。二つの意味でね。
アーメン!大いにイエス様に期待しつつ、 私達は進んで行こうではないでしょうか。

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