2013年2月6日水曜日

ウッドロフ師の内に見られる「適切な使徒的人格」(前編)

今月は、2/6&7に行われたBTGのEAMセミナーや礼拝の中でも見た「適切な使徒的人格」のDVDからの教えです。
メッセンジャーは、トリニダード・トバゴ、エリアセンターのジューン・ウッドロフ夫人です。



使徒的使命に従事する

    神の民とのコミュニケーションの中で、神はたいてい決まって男の人をつかわします。神の霊の内にある啓示をもって油注がれ、神の民のためにリーダーシップを提供できる人です。ウッドロフ先生は、使徒的改革の先駆けとなるために神によってつかわされたそのような人です。私達が建て上げられ、確立され、彼が受けた召しの内に私達が導き入れられるために、彼は遣わされました。

ガラテヤ書1:1
「人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒パウロ。」
 
パウロは神の民に、明解なうなずける言葉を伝えただけでなく、パウロ自身の生活の中にある真正な神の国の手本をも示しました。ですから、彼の教えは単なる言葉ではなく、ライフスタイルを伴いました。彼はピリピの人々に教えました。あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、私の内に見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたと共にいますであろう。神の御前のハガイのように、パウロは主の命における主の使いでした。


ハガイ書1:13にあります、
「 時に、主の使者ハガイは主の命令により、民に告げて言った、「わたしはあなたがたと共にいると主は言われる」。」

    ですから、この課では、ウッドロフ先生の内に実証される神の国の正確な手本を述べてゆきます。それは、20年間正しくコングレスWBNを導き、彼の人生における神の召しを効果的に管理することを可能にさせた重要な性質を扱います。グラハム・キングが私にインタビューをしている際に、私の心に浮かんだ最初の土台は、キリストの体全体のための重荷です。 

  ここにあるものを私が実際に読み上げる前に、これが実際にはどのように起こったかを簡潔に述べます。
 それは、何年も前のこと、1986年頃でした。私達の子供達、上の二人はアメリカにいて、下の子はハインズ家で過ごしていました。ウッドロフ先生と私は祈るために彼の書斎で共に集いました。まず、その祈りの中でこの噴火を引き起こしたものを、補足しなければなりません。

 この時の何ヶ月か前に、私達はある集会に参加しました。この国の牧師達の一人であり、最も有望で最高の一人でした。若く、有望で、真にその特定の教派の中の最高の一人が、この特定の目的において説教するために呼ばれました。彼は、あまりに哀れでした。彼はほうほうの体で啓示のためにもがいていました。彼は、ジョークを飛ばそうとしていました。そして、そのことがまさにウッドロフ先生に大きな衝撃を与えました。けれども、それがどれほど深く彼に強く影響を与えたかは、何ヶ月か後になるまで私はわかりませんでした。なぜなら、その集会は12月にあり、翌年の8月に私達二人は書斎でともに座していたのです。

 そして、彼は祈りましょうと言い、祈り始めました。そして、ちょうどこのように、彼はまさしく祈り始めました。「主よ、あなたの民を御覧ください。父よ、あなたの教会を御覧ください。父よ、彼らはあまりに哀れです。父よ、牧師達を見てください。」と続いてゆきました。そして彼はこの”有望な”牧師のことにも触れました。それから、ウッドロフ先生は泣き始めました。彼が泣くのを、私は以前に一度も見たことはありませんでした。私が言いたいのは、この深いところから、彼はむせび泣き始め、泣きじゃくったのです。彼は言いました。「神よ、私に能力をください。あなたの教会を変えるための力を私にください。神よ、あなたの民を御覧ください。神よ、彼らはあまりにも悲惨です。」これが、キリストの体全体のための重荷が生まれた時です。私は、そこにいました。私はそれを目撃しました。このことは私を驚愕させました、なぜなら、私達の最初の子供の死を経験し、彼が泣くのを私は見ませんでした。それなのに、神の民のありさまのゆえに、心が苦しみ、この内側から深く泣いたのです。これの由来はこれからきました。だから、私が単に読むよりも、あなたにこれを伝えたかったのです。では、今、私達は読みましょう。


  今、私がちょうど述べた、エリヤセンターの誕生の何年も前に起きて、ウッドロフ先生に深遠な影響を及ぼした霊的経験。そして、彼が祈り、実に弱く欠けたありさまの教会を思いめぐらした時、聖霊が彼の心の中に教会のための真の重荷を埋め込み始めました。ウッドロフ先生は、神教会に目を注ぎ、このありさまを変えるための力を私達にくださるよう訴え始めました。


ダニエル書の9:17-19にあります。
それゆえ、われわれの神よ、しもべの祈と願いを聞いてください。主よ、あなたご自身のために、あの荒れたあなたの聖所に、あなたのみ顔を輝かせてください。(教会はこのような荒れ果てた聖所でした。)わが神よ、耳を傾けて聞いてください。目を開いて、われわれの荒れたさまを見、み名をもってとなえられる町をごらんください。われわれがあなたの前に祈をささげるのは、われわれの義によるのではなく、ただあなたの大いなるあわれみによるのです。主よ、聞いてください。主よ、ゆるしてください。主よ、み心に留めて、おこなってください。わが神よ、あなたご自身のために、これを延ばさないでください。あなたの町と、あなたの民は、み名をもってとなえられているからです」。

    エリヤセンターとコングレスWBNの誕生と建て上げを通じて、この重荷はウッドロフ先生の上に留まり続けてきました。そして、それは重荷です。そして、それは私達のコーディネーター達も必ず担うべき重荷です。それは、コングレスWBNの今現在の運動、キリストの体全体の代わりに代表として立つということの種でした。ずっと前のその時代に聖霊により生まれた真の願いです。


 

僕の心
    私の心を打ちつけた次の事柄は、ウッドロフ先生は僕の心を持っておられるという事実です。

 何年も前、ウッドロフ先生は、彼が中東のどこかで僕として主人の天幕の外に立っているという、主からのビジョンを見ました。彼には、透けたシルクカーテンから中が見え、その天幕の主人からくる最もわずかな動きまたは命令を余念なく聞いていました。ウッドロフ先生がそのビジョンを描写してくれたのを私は覚えています。彼は、そこにただ立っていて、そこには非常に薄いカーテンがあり、そしてそのカーテンの内側には、王が横たわっていると、言いました。あきらかに、その王は神であられ、この外側には僕として、彼がいました。彼がそのことについてこう語りました、彼はただ、最も小さな音を待っているような姿勢でそこにいます、それを聞いて中に入りその主人に仕えるためです。主人が一杯の冷たい水か何かを欲したり、それがどんなものであってもです。その類の僕の心でした。ご主人様、私は聞き入っています。私はほんのわずかなことを余念なく聞いています。それだから、あなたからの一言で、私はそこに参ります。

 そのイメージはまるで、気が利く僕が立っているようです、いわゆる高級なレストランで、ウェイターがそこに立っていて、あなたが眉毛を動かすだけで、あなたに仕えるためにすぐにそこにいるようなものです。ウッドロフ先生がこのビジョン・夢をもって描写したのは、そのような種類のスピリットでした。彼は透けたシルクカーテンから中を天幕の中を見て、その天幕の主人から来るほんのわずかな動きまたは、命令を余念なく聞いていました。

 これが、念入りに聞く姿勢の霊的誕生地点でした。ウッドロフ先生の、特に初期の時代での常々の祈りは、「主よ、私は正しくそれを行いたい、それを正しく行えるよう私をお助けください」でした。そして、本当に彼はいつも、「私達はそれをただ正しく行いたい」とよく祈っていました。

それは詩篇40:8にあります、
「わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」
その同じ僕の心が、コングレスWBNのコーディネーター達と、こられの建て上げに労をなしている方達のうちに、必ず見出さなければいけません。私達の心の内の、「わが神よ、わたしは御心を行うことを喜びます」という宣言をもって、主のご要望へと余念なく継続してとどまっていかなければなりません。



建てるのは主であられます
次の、土台のポイント、建てるのは主であられます。

また別の霊的体験が、ウッドロフ先生が1974年に救いを受けた教会でありました。その主任牧師はとても力強い救いのミニストリーを行い、集会に集う人々の数は大いなる成長を引き起こしていました。ある時、その牧師が壇上に座り、会衆を見ていました。(明らかに彼の心に高慢が満ち始めていました)。
 
神は、突然に私達の耳に聞き取れる声で、彼に語られました。そして神は彼を名指しで呼んで、容赦なく言われました。「これはあなたの教会ではない、これは私の教会だ。これらはあなたの民ではない。これらは私の民である」。それからこの体験は、その教会に報告され、当時のウッドロフ先生の心の内に、大きな衝撃を起こしました。私達がエリヤセンターを始めた時、他教会からの教会員が時々訪れた時、その牧師のことを彼らは言明しました。それはまるで彼らは逃れないといけなかったか、またはその牧師が彼らを自由にしなかったかのようでした。

私達はそれに驚きました、なぜなら、この人々は神の民であることを私達はいつも認識していたからです。その意味で、彼らは私達の民ではありません。彼らは、私達が愛し、その家の真の奉仕者達でありまた私達の兄弟であり家族の一部だという認識においては私達の民です。その意味で、そうです、彼らは私達に属します。けれども、別の意味では、彼らは私達のものではありません。そして私もその集会にいたので、その牧師が語った時、主が聞き取れる御声で、「これらはあなたの民ではない。これらは私の民である。これはあなたの教会ではない、これは私の教会だ。」と語られたのを覚えています。

ですから、私達はコーディネーターとして、私達の民を所有し、肉的に自分自身に満ち、神の霊の中に従わずして命令できるなどと感じては、決していけません。私達はそれについて、とてもとても注意深くあるべきです。

ですから、コーディネーター達は、けして高慢に働かず、神の民の上に支配を行使することは決してあってはいけません。ウッドロフ先生はいつも言ってきました。「人々はほっときなさい。それでOKです。」さてこれは別のことです。私達はそのことと、神の秩序との間のバランスを保つべきです。当然、人々は自分達の行いたいことを行なうように許されてはいません。けれども、別の意味で、人々はほっときなさい。ウッドロフ先生はいつもそれを言っています。人々はほっときなさい。人々は私達のものではない。


ですから、コーディネーター達は、神が目的を成就する上で完全な支配をされているのを認めなければなりません。 

マタイ16:18にあります。
そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。

ウッドロフ先生が、冗談を含んで、けれども明確な悟りをも含んで時々言うことを、私はここでお伝えします。「聞いてください、これは神の教会でしょう。イエスは私は私の教会を建てようと言います。仮に彼がそれを建てられないなら、それは彼の問題です。」ウッドロフ先生が時々冗談っぽく、そう私に言うのを知ってますね。それは、私達のだれかが「そうだ、私達は正しく行ないたい。私達には僕の心がある」というのを防ぐためです。

けれども、同時に、彼が私と共有する何かがあります。それは肉は、それ自体を何かになりすまし、霊的かのように現れてきます。ですから、私達は、その言葉が適切に使われたか確認するために過剰に正しくなりすぎています。それだから、私達は実際にほんとのところ、私達自身に依り頼み始めています。ですから、ウッドロフ先生はたった今、ここの平安の全体さと内なる人の中の静けさとそのバランスについて、語りました。

私はそのことを今まさに、ちょうどここに置きたいです。すなわち、彼の上にあるすべての重荷とともに、彼はイエスがイエスの教会を建てる方だという事実を完全に認識しています。それだから、私はこの引用をします。「 仮にイエスがそれを建てられないなら、それは彼の問題です。」そうです、ですから私達はバランスを保たなくてはいけません。

また別の御言葉があります。主が、その働きの知覚できる進展についての、どんな形の不安に対する保護と彼の行程を支配している、という確信です。 
ゼカリヤ書4:6にあります。 
「万軍の主は仰せられる。これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。 


人々を建てあげるという願い

次のポイントです。人々を建て上げるという、大いなる圧倒的な願い。人々を高めるためのウッドロフ先生の熱烈な関心です。現に彼は昨日、その二人の異なるミニスター達について話した時、それについて少し語りました。その一人にフッドロフ先生は住宅を提供し、三ヶ月間の滞在を許し、さまざまに異なるCDをもって彼を整え、それによりその人は彼自身を建て上げられ、リフレッシュできるからです。ウッドロフ先生は、ずっとそのようにされてきました。ですから、私達はスーパーに行きます、あなたはだれだれ先生とその娘達に会います。そのおしゃべりはまた30分ほど続きます。それはすべて、ウッドロフ先生は人々を喜びとされるからです。私が持つものをあなたに授けたい。 彼自身だけに何かをとどめておくというのは、絶対に彼の願いではありません。決して、そうではありません。

ですから、彼はこんな表現もします。「時にはね、あなたが人々を祝福したいのを、彼らは認識しないことがある。それだから時々、あなたは彼らに祝福を押しつけないといけないよ」
だから、何年もの間、今日に至るまで、時にはそうでありました。ウッドロフ先生は時には祝福を押し付けるのです。ですから、今、聖所について話しましょう。これは私達皆の内に完全に成長したものとなろうとしています、真に協同な、そしてそれはなんとすばらしいことでしょう。それは、あなたが人々を育みの場所へ、聖所の場所へ、欠けたもののない所へ導くという強い願いです。彼らの上に祝福を押し付ける

私は、昨日スティーブシュルツ先生が語ったことをもう一度、話したいです。
ホセア書11:4
この箇所の背景を私達が見る時、あなたは悟られるでしょう。ホセア書11:3からみましょう。
わたしはエフライムに歩むことを教え、彼らをわたしの腕にいだいた。しかし彼らはわたしにいやされた事を知らなかった。わたしはあわれみの綱、すなわち愛のひもで彼らを導いた。わたしは彼らに対しては、あごから、くびきをはずす者のようになり、かがんで彼らに食物を与えた。

「かがんで彼らに食物を与えた」が絶え間なく続いてきた姿勢です。

 神の民を建て上げるという大いなる圧倒的な願い。人々を高めるための関心です。ショッピングモールや、スーパーで立ち止まって、牧師先生と会って話すチャンスの例えですが、ウッドロフ先生は半時間をも費やして、その人と話します。彼らを建て上げ高めているのです。これは、私達の使徒の心と、コングレスWBNのコーディネーターの適切な心の立ち位置のしるしを、示します。私達は祝福を人々の上に押し付けなければいけません。私達は祝福を人々の上に押し付けましょうと、言おうではないですか。そうですね!
 


 統合と平坦化

このことは、統合と平坦化に流動します。それはたんなるスローガンではなく、世俗のコンセプトでもありません。子達をテーブルにつれてくることは、長年のウッドロフ先生の心の関心事でした。人々の内に発達を見て、建て上げの労苦の内に彼らが機能的パートナーとなる方向へと導く願いはいつも、存在してきました。私達が行った教会で、私はこの上にいて、あなた方が知らない、また決して知ることのない秘密があるというような態度の牧師を、私は覚えています。ウッドロフ先生はそれがどれほど間違っているか悟りました。

 ですから、彼が持つすべてを、皆に与えるというのがずっと彼の願いでした。それは、私達は洗練された一流の群れである使徒的コアチームで私達の強力なミーティングを持ち、他の庶民は皆あちらの下にいるというような高慢では決してありませんでした。

ですから、今私達がいる場のレベルでさえ、「私達はリーダーシップの一員であり、IAEに集う特権を持っている」なんて、私達の心の内に決していれないようにしましょう。それは罪深く、誤っており、私達の使徒の心の内にはないものです。

ピリピ人への手紙1:4-7

あなたがた一同のために祈るとき、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっていることを感謝している。そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。わたしが、あなたがた一同のために、そう考えるのは当然である。それは、わたしが獄に捕われている時にも、福音を弁明し立証する時にも、あなたがたをみな、共に恵みにあずかる者として、わたしの心に深く留めているからである。

 ウッドロフ先生は、その資源によって建て上げられるかもしれない人々にとって、有益な資源は絶対に留めておきません。そして私の思いにやってくる御言葉は、パウロが出発する直前に言った時のことです。 
「神のみ旨を皆あますところなく、あなたがたに伝えておいたからである。」(使徒20:27
 私が、これに目をとおしていた時、今朝も、私自身ある意味で論じ合う結果になったのを覚えています。それは、私達が持つすべてを人々に与えるならばという疑問です。私の中の教師が考え始めました。もし多くの生徒達を持ち、皆がこの一つの奨学金のために争って、もしくは4つの奨学金のために。その生徒達は奨学金を得られないかもしれないので、互いにノートを見せ合うことをしないかもしれない。けれども、この世界では皆100%得ることができます、だから大丈夫です。

 それだから、何かを留めておくという必要は絶対にありません。いや、たとえば、仮にこの人と分かち合うなら、彼らはそれらをわかちあうために立ち上がり、それはまるで彼らの啓示かのように見えてしまう。でも、ほんとはそれは私のアイデアだったのに。これらすべては、単なる肉です。それはほんとに肉的です。ですから、私はかがんで彼らに食物を与えた。パウロは、神の御旨をあまつことなく告げることを避けませんでした。
 
そして、コングレスに属する私達は、皆に100%を得てほしい。なぜなら、なんにしろ私達皆がその奨学金を持っているからです。ですからこの手本はコングレスコーディネーター達の中に必ず見いださなければなりません。彼らは、人々の益となり人々が建て上げられるために彼らが受け取ったすべてを流し出すための道をひかなければなりません。これは、私達がウッドロフ先生の内に見る模範と調和します。


(後編に続く…)

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