2013年4月21日日曜日

ウッドロフ師の内に見られる「適切な使徒的人格」(後編)

前回に引き続き今回は、2/6&7に行われたBTGのEAMセミナーや礼拝の中でも見た「適切な使徒的人格」のDVDからの教えです。
メッセンジャーは、トリニダード・トバゴ、エリアセンターのジューン・ウッドロフ夫人です。



人々への真の愛と彼らがつまずく時の悲しみ 

 次に私が語りたいポイントは、人々への真実の愛と彼らがくじける時の悲しみです。
この箇所の後半部分は、第2コリントの11:28-29の中に集約されます。パウロは、責任の重荷のすべてについて語っています。こうあります。

「なおいろいろの事があった外に、日々わたしに迫って来る諸教会の心配ごとがある。だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか。」
 それは、私がウッドロフ先生の中に目にしてきたことです。真の痛み。「愛は不義を喜ばないで真理を喜ぶ」という御言葉があります。私達の内のだれかがつまずきくじける時、皆さんに告げます、そのことは、ウッドロフ先生にとっての個人的悲しみと痛みの源となります。

彼は確かにそれを感じます。彼は人々への真の愛を持っています。彼らが暗闇の中にいるなら、それはほんとに彼を痛めます。彼は自分がすべきことをするのです。その延長として、誰かが処刑されなければならないとして、あなたはあなたが成すべきことをしなくてはなりません。
 
けれども、ウッドロフ先生はそれを言います、彼が「私はあなたの喉をかき切ります。私が95歳になるまで、私は泣くでしょう。けれども、私はあなたの喉をかき切ります。」と言う時、冗談を言っていると私達は思うかもしれません。でも、知ってますか?彼の心の内の心で、彼は本当に95歳まで泣いています。そのような類いの心をあなたは見ます、なぜなら私達が神様の心をいだく時、だれかがつまずくならそれは神様を痛めるのを私達は悟ります。それは痛めるのです。私達が究極的なことを考えるならば、神様はだれにも地獄には行ってほしくないのです。



 主の聖徒の死はそのみ前において尊い。なぜなら彼らは主の故郷に帰ってくるからです。しかし、不信心な者が滅びる時、それは神にとって痛みです。ですから、このレベルの集まりでにおいてさえ、私達皆、私達の心の内に真の愛をさらに入れてくださるように神に願わなければなりません。人々への真の愛と関心、そして彼らがつまずく時の悲しみ。

 さあ、続けましょう。とても実際的なやり方において、ウッドロフ先生が人々に対して抱く真の愛は、明白です。多くの実例が今までにあります。そのいくつかを昨日彼は話しました。彼は迷い出た人に手を伸ばすために自身で費用を担ってきました、神の国の満ち満ちた中へと彼らを導き戻すための労苦の中でです。時には、これは、個々の特定の問題を扱うために世界中を旅することを意味します。時には、プログラムが人々を正確さへと連れ戻すことをさせるための財源となります。時折、コングレスの人々が神の国の基準を拒絶する時、それはウッドロフ先生にとって個人的な悲しみとなってきました。
 

哀れみと寛容の心

 このことに続いて、哀れみと寛容のこころがあります。
 思いだされる御言葉は、
「わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。」(ローマ15:1)
です。このことは私達の内になければなりません。哀れみと寛容。
 

 私達にとって特定の領域ではそうなれて、あるところでは不寛容になってしまおうというのは人間的です。「この人はほんとに鈍いし愚かだ」というようなものは何であれ、それは誤っています。ウッドロフ先生がいつも言われることがあります。それは、私達が心にとめるべきことです。それは、私達と比べて神様のことを考えてみることです。もし神が私達にそんなに忍耐してくださるなら。私達が通ってきた旅路を見て、その過程を見る時神は小さな種を植えておられました。けれども神は一度に小さなかけらだけをくださいました。時には私達はその全容を完全に理解していませんでした、それなのに神は、そうだ、あなたはうまくやっていると言ってくださいました。

 ですから、私達は他の人にとてもとてもとても寛容で、哀れみに満ちていなければなりません、でなければ、私達はウッドロフ先生と調和した道を歩んでいません。ウッドロフ先生は極めて寛容です。彼は芯から我慢強く、哀れみ深いです。これは、彼が人々の弱さと不足を取り扱う上で、ほんとうに明らかになります。

 これがその御言葉です。
「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない。」(Ⅰコリント13:4-8)

 CWBNのコーディネーター達は人々の内の目下の誤りの向こうを見て、彼らに定められた目的の内を主の前に彼らが正しく歩むための可能性を預言的に見極めなければなりません。そしてこのことは神がギデオンを見て、あなたは大勇士だ、と宣言されるのと同様です。この時点では、ギデオンは腰抜けです。彼は隠れ、酒ぶねの中で麦をうっています。なぜなら彼はミデアン人をおそれていたからです。けれども、神は彼を大勇士だと呼ばれます。


 そして私はウッドロフ先生が人々に手を伸ばし、彼らの内に可能性を見て、彼らを常に前へと引き寄せ、次のレベルへと導き上げようとされてきたのを私は個人的に見てきました。寛容が欠けてはまったくいません。ですから、私達は叱るに早かったり人々を勘当するのに早くあってはならないことを学びます。

 出エジプト記からの御言葉があります。モーセが主に「どうぞあなたの栄光をわたしにお示しください。あなたの御顔をお見せください。」と言うところです。言うまでもなく、主は出て行かれ、御自身の御性質を宣言されました。そして当然、私達も神様のようになりたいです。ウッドロフ先生はいつも言っています。「私は必ずしもいい人ではない、私はただ神様のようになりたいだけだ」彼はそう言います、そして実際、彼はまさに神にとても似る方です。

 ですから、ここにこうあります。神が雲の内に降りてこられ、そこにモーセとともに立ち、彼の名である主の名を述べられました。神はモーセの前を主の名を述べられながら、通りすぎました。哀れみ深く慈しみ深い神。しかし主よ、あなたはあわれみと恵みに富み、怒りをおそくし、いつくしみと、まこととに豊かな神でいらせられます。いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者。
 
 しかしながら、そこにはバランスがあります。神のいつくしみと厳格さ、それもまた私達皆の中になければなりません。それはウッドロフ先生の中に確かにあるものです。そうではあるがしかし、罰すべき者は、決してゆるさない方であるに至ります。父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼされます。
ですから私達は神の忍耐と哀れみに焦点を置きますが、そこには限界とバランスがなければなりません。ですから、私達はこの御言葉の中で、忍耐と義の基準の維持との間に要求されるバランスを見ます。神には、けして犯されるべきでない法があります。けれども、その法の制約の中で、神は御性質の哀れみ、慈しみ、忍耐深く、愛に富み、まことと許しを顕わされます。



 私達が焦点をあてるべき次のことは、物事を裁くときです。ウッドロフ先生は、質問をします。そしてさらに問いかけます。彼はなおも、他の関係者の視点を探求します。そのことはウッドロフ先生が何年も私にたたきこんできたことだと伝えるために、ここで少し立ち停まりたいのです。


 ただ決断することに早まってはいけません。全体像をあなたは知っているのだと思ってはいけません。あなたがもし早まって、あなたの前にあるものを見て、それがまことに事実だと思い込むなら、自分自身を問題に巻き込み、愚かな者としてしまうでしょう。ですから、彼はいつも尋ねて聞くために注意深くあり、真の霊の中に入ろうとし、人々が言ったかもしれない言葉でさえも得ようとします。彼らが口にしてはいないことを聞かなければなりません、実際におこっていることの領域の内をあなたは見なければなりません。

 それから、他者の視点を得なければいけません。それら全部の後、誰かを取り扱う前に聖霊様に聞いてください。そして、それらすべてを終えた後、その人がほんとに悪人、邪な人であるならば、彼らはまことに叱責される必要があります。矯正が行われる時、それは常に、個人的死の立ち位置から執り行われます。もし、私達が人々を私達のエゴと「あなたの上に私は権威があるのだ」という事実から、矯正しているならば、それは正しくありません。なぜなら、叱責の中で、それは私達を神へと立ち返らせるはずだからです。主は愛する者を、懲らしめます。叱責は、単にあなたを踏み落とし、泥の中に投げつけるためではありません。叱責は、常に、その裏側では、その人がどんなに悪かったであろうが、彼らに光を見させ、正確さの中へと導き入れるためのものです。


 ですから、そのことは私がほんとに目にしてきたものです。ウッドロフ先生が叱責をされるとき、それはまるで彼自身に神の霊をまとい、霊の中に入り、神の視点からそれを行うようです。神はあなたに何をさせえますか?それは、決して、個人的侮辱からはありません。「あなたはこんなことを私にするなんて?」のような、そんなことは決してありません。ですから、矯正が行われるとき、それは常に、個人的死の立ち位置から執り行われます。決して個人的な侮辱行為からではありません。
 

 個人的な使徒的権威の過剰な行使は、決してありえません。矯正は、究極的には、個人を懲らしめます、しかしまた励まし、愛し、拒絶はしません。これについて思い出される絵は、ウッドロフ先生が抑制された強さについて語ることです。ここにいる私達のほとんどは、リーダー達です。思うにリーダー達は強いものです、確かにリーダーと従う人たちとの背景の中ではそうです。あなたは、強い立場にある人となります。私達は人々に語る時、ほんとうに注意深くなければなりません。
 
それはハルク(注:アメリカのアニメ、超人ハルクのこと)を思い出させます。小さな子供を救出する時、彼がハルクである状態の時でも、子供を拾い上げるためにとても柔軟になります。その子供を心配するあまり、彼はただ行って子供をつかみあげるだろうとあなたは考えるかもしれません。私は、それについて座ってそれについて思いめぐらすことに慣れました。そしてそれは、ウッドロフ先生のやり方のようです。たしかに、ウッドロフ先生は霊の領域ではハルクのようです、けれども、彼が誰かを正さなければいけないなら、彼は自分のハルク性を無効にするのです。

 昨日、スティーブ・シュルツ先生はこれをこのように言われました。
ビロードの手袋に包まれた鋼鉄の手

エレミヤ書10:24
「主よ、わたしを懲らしてください。正しい道にしたがって、怒らずに懲らしてください。さもないと、わたしは無に帰してしまうでしょう。」
Ⅱテモテ 4:2   
「御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。」
 CWBMのコーディネーター達は、彼らが神の民を扱う時、同じ性質を必ず実演しなければなりません。委任された権威は、決して乱用されてはいけません。哀れみと寛容は私達が取り扱うすべてにおいて、私達の心の中に、生きているべきです。

家族への焦点と家庭の秩序

 ウッドロフ先生の初期の預言的言葉の一つは、家族の重要性の上に強い強調点を据えました。その預言者の言葉の実際の言葉を私は覚えています「私は教会を生み出す以前に家族を生み出したことを覚えなさい。」それはウッドロフ先生の中に注ぎ込まれた何かでした。

 それはどっちにしろそこにあったのではなく、それは確かに彼の上にとても深く、刻まれたものでした。これはおそらく1988年頃の前に彼が受けた最初の預言的言葉の一つだったと、私は思います。ですから、家族の重要性は常に強調されました。ですから、その預言者の言葉は、ミニストリーにまさる家族の優先についてのウッドロフ先生自身の信念を強化しました。

 ウッドロフ先生の広範囲へ頻繁にある旅行の年月の間すべてにおいて、私は個人的に、ほっておかれたり孤独などと一度も感じませんでした。それは、神の霊の働きによったか何かであるに違いありません。


 ですから、昨日に至るまで、人々は来て言います、「ウッドロフ先生を私達につかわしてくださってありがとう、感謝します、その犠牲を感謝します」ほんとのところを皆さんにお伝えしましょうか。私にとってそれは犠牲ではありませんでした。

 なぜなら、まるで彼はいつもここにいるかのようでしたから。それがどんなものかは説明できません。けれども、彼は養いにおけるそのような強い土台を据えてきました。そして、私達が聞いてきた、このヘブル人としての事業、彼は真にヘブル人の男です。ほんとにです。結果として、もし彼のあら探しをするとして、それはほとんど大目に見すぎているようになります、それは彼が正しいからではなく、私は寛大さを費やすような愚か者ではありません。

 けれども、そこには私の上にいつも覆いがあります。いつも、この関心があります。いつも養いがあります。私が大丈夫かどうか知るために電話をいつもかけ、確認しています。いつもこの家族の事業です。そして彼は彼の娘達にそれをおかなければなりません、彼らが若い時、彼らをいつも養いました。そ

 して、今日にまで、彼がすべきことを、彼はなおも行います。もし娘達の一人が大学寮から引っ越す時は、毎年、ウッドロフ先生は行きました。彼がどれほど疲れていようが、二コラとジャネールの両方のためにです。もし彼がちょうど南アフリカかニュージーランドから帰ったところだとして、二コラが一人で奮闘するのを彼は黙認することは絶対ありません。彼はそこに行って、骨を折って、これを下ろして、あれを包んで、あれを持ち上げてと手伝っています。いつもです。そして、今日に至るまで、2番目の娘は、いつも言います。「お父さんは、やってくれるよ」それだから、子供達には、ミニストリーが彼らの父を取り去ってしまったなどそんな類の感情は、理解できません。

 もし、私達が働きにあまりに情熱を注ぎ、私達の家族が放置されていると感じるならば、それは二つの内、どちらかです。私達が、聞き分けのない肉的で、自己中心な家族を持つか、もしくは、彼らは単に邪悪であるかです。または、私達が正しく行っていない何かがあるかです。


 なぜなら、私は率直にみなさん兄弟姉妹に告白します。私自身の生まれつきの肉の私は、どなたかが述べてくださるような強く有能ではありません。このことについて、それは問題ではありません。その主人がそこにいる、またはいないというような婦人達がおられます。それは問題ではないのです。私はそのようではないです、私には私の覆いが必要です。私は、なんでもすべてできる術を知っているような女性ではありません。ともかく、ウッドロフ先生は外によく出ています。けれども、ここにもよくいます。そして私は大丈夫なんです、至極とても平気なんです。

 ですから、ウッドロフ先生の広範囲へ頻繁にある旅行において私は個人的に放置されたなどと決して感じたことはありません。そして、彼が肉体的にここにいない時でさえ、まるで彼の霊がいつもここにいるようです。

 コーディネーター達は彼らの心の内に、確かに刻まれた良質な家族生活の優先を必ず持たなければいけません。妻達は、愛されている、尊ばれている、護られていると感じなければいけません。子供達は、彼らの両親の関心と助言を楽しまなければなりません。家族と夫婦の重要性は誇張されすぎることはありません。

犠牲とハードワーク

最後の項目は、犠牲とハードワークです。
これを終えるにあって、コロサイ人への手紙1:29

「わたしはこのために、わたしのうちに力強く働いておられるかたの力により、苦闘しながら努力しているのである。」
コングレスWBNの私達の労苦すべての裏側には、これは神の働きであり、それは個人の犠牲の最高レベルが要求されるという重大な認識があります。

 私はその事実を証明できます。私達は皆、それを見ることができます。ウッドロフ先生はは実にハードに働かれます。でも、それについてのいいことは、みなさん、彼はそんなに労苦されますが、彼はまたテレビの前に座ってたわい無いことで笑いもします。バランスがそこにはあります。私はそれをほんとに強調したいです。なぜなら、彼の熾烈さにおける彼だけを見るなら、私達は誤解し、行って私達自身を焼かれてしまうでしょう。そうではありません、けれども、ハードワークは、そうです。


 パウロが「私はあなたがたの誰よりも異言を多く語る」と言う御言葉を、思い出します。ですから、コーディネーターのみなさん、あなたが骨折って働かれているのは知っています。けれども、私は、ウッドロフ先生は、みなさんのだれにも勝って骨折って働かれていることをここで、お伝えするためにいます。彼はほんとにそうです。

 ですから、ハードワークは、私達のDNAの一部です。私達は、熱烈な労苦が明らかにあるウッドロフ先生の内に、この模範を見ます。しかしながら、その努力は、肉のものではありません。あまた自身の個人的強さを引き上げるかわりに、恵みを引き下ろすのです。TFMの中で教えられたように、それは何年もの間、顕わされてきた、ウッドロフ先生にとっての真の動力源です。

 コングレスコーディネーター達は、その務めのために私達に入手可能な天的資源を引き下ろしながら、骨折って働かなければいけません。これのみが、ダイナミックな霊的バランスが生活の中で保持される方法です。それによって、神の必要のすべてが、家族が傷つくことなく、成し遂げられます。そして私が強調したい最後のことは、私達の体を服従させることは、効果的な神の国の建て上げのための、必須条件です。


 ウッドロフ先生は、神の目的を完成するという酬いを一貫し精力的に追い求めることを実演されます。その過程の中でいっさい彼個人の望みは出しません。ですから、彼が疲れている時でさえ、彼は起きて何かしなければいけないなら、「私は私の体に成すべきことを告げます」と彼は言います。彼は外国に到着して、彼の体は悲鳴をあげています。「今は夜中の12時のはずだ」けれども、その国が要求するのは、朝の8時です。あなたにとってその一日が始まる時間です。その時、彼は彼の体に成すべきことを告げます。私はなお言います、そのことの一部は明らかに、神からの恵みです。私も試みてきましたが、私はまだそこまで到達していません。それでも、私達は、私達の体を服従させる必要があります。

それでは、ここで終わりとしたいと思います。



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