2013年6月17日月曜日

「主の晩餐」~BTG聖会より~

  今回は、6月の月報より、2013年5月5日(日)BTG聖会の最終日の合同礼拝の内容を掲載しています。

  メッセージのとりつぎをして下さったのは、BTGネットワークの使徒的リーダーシップチームのデイビー・カップ師(アメリカ・ロングビーチ:シティ 
アット ザ クロス)です。「主の晩餐」について、語ってくださりました。


 私たちは非常に重要な時期に入っています。私たちは核の上で旋回して、手を伸ばそうとしています。けれどもそれをする前に、神様はあなたの核が強いかどうか確かめなさいとおっしゃっています。この核というのは、2007年から私たちがずっと旅してきた、それらが私たちの核です。その真理の旅は私たちの核です。ここにおられる全ての牧師先生のために、DVDを差し上げます。私たちコングレスに対しての、ウッドロフ先生からの言葉です。


 それは実際には彼の教会に対して説教しているものです。ですから皆さんがそれを見る時に、ウッドロフ先生を牧師として見るでしょう。ウッドロフ先生が御自分の教会に対して核を変革するということの重要性について語っておられるのを見るでしょう。私たちが出て行く前に、私たちの核が本当に強いかどうか、確かめなくてはならない。私がウッドロフ先生から受けてきた、変革されるための言葉の中で、最も私を変えた力強い言葉です。このメッセージは、私の内側で一番変化が出ました。私たち皆がそれを聞く必要があります。次の2~3週間かけてですね。神様はコングレスの全体を止めて、全体としてあなたの核が変革しているかどうか、確かめなさいとおっしゃっています。そしてそれをどのように行うかについての、実際的なものを教えて下さいます。それは本当に素晴らしいです。牧師先生たちにそのDVDを差し上げますので、御自身の教会の中で、それを用いていただきたいと思います。




 今日私たちが終りにあたって、主の食卓に預かれることを喜んでいます。主の晩餐と呼ばれるものです。聖餐式と呼ばれているものです。私は今日、聖餐式がどういったものなのかについて、分かち合いたいと思います。クリスチャンとしての信仰における最も独特なものと言えますね。私たちを他のどんな宗教よりも、異なる者とします。私たちを分け放つと言えます。私たちが行う信仰の行いの中で、一番偉大な行いと呼べるでしょう。もしあなたが信仰を持っていないなら、それはおかしなことですね。パンを食べて、ジュースを飲むだけ。本当に変です。でもそれは教会の真中のものです。信仰によって、聖霊の力によって、私たちはキリストの体と血にあずかって食べているのです。ローマの偽指導者たちは、クリスチャンについて本を書きました。それは、「あの者たちは、人肉を食べるために集っているのだ。」外側から見たら、キリストの体を食べている。イエス様に従ってくる者たちが、本当に増え広がっていました。そしてイエス様は言いました、「私の体と血をとって食べなければ、私の一部ではありません。」と、「私は天から降りて来た、生けるパンです。」主の食卓とは、私たちを世から異なる者とする、最も主要な事の一つです。私はイエス・キリストの肉と血を食べています。それをBTGの全ての教会の皆さんと一緒にするということは、本当に素晴らしい事です。



 主の食卓の根源は、神様は御自身の民をエジプトから脱出させて、約束の地へ入れたい。それは私たちの完成へと向かう旅の写真です。エジプトが現しているのは、私たちが不朽の世界に入っていくための動きを、留めようとすることを現しています。不朽は完成です。エジプトは朽ちる世界、捕らわれた世界を現しています。神様は、「私の民を行かせなさい!」と、おっしゃっています。「教会を完成へと到達させよ!」と、おっしゃっています。「朽ちる者たちよ、不朽の所へと行かせよ!」と、おっしゃっています。敵と肉とバビロンは、「いやだ!」と言います。そして私たちを捕まえて、朽ちる世界の所へ留めようとします。朽ちる性質、死が私たちを留めようとする。ですから教会を完成へと動かすためには、神様はエジプトを、バビロンは陥落しなければなりません。世のシステムは、粉々にならなければならない。

 なぜでしょうか?それによって私たちは完成できるからです。ですから完成が要求しているものは、神の裁きがエジプトの上に臨むことです。エジプトの破壊なしには脱出はありません。それは世のシステムとも言い換えれるでしょう。皆さん十の災いのことを思い出して下さい。なぜでしょうか?エジプトを震わすためです。それによってパロ王が、神の民を行かせるためです。十個ありました。一番最後のは、エジプトの民の長子を全て殺すことでした。なぜなら神様は、イスラエルは我が初子だからである。神様はエジプトの強さ、世の強さを破壊しておられます。それは預言的な目で見たら、それは最後の世代と同じ型です。神様は教会に完成して欲しいです。私たちは変らなければなりません。けれどもこの世のシステムは、破壊されなければなりません。教会の成長とバビロンの破壊、両方が要ります。

 見て下さい皆さん、神様がエジプトを破壊される時、神の民はエジプトの中に生きていますよ。ですから神の民は防御が必要です。その防御とは、彼らの家の戸のかもいに子羊の血が塗られていることと、子羊を食べることです。そうすれば安全になる。その食事は今の聖餐式の影です。キリストは私たちの子羊です。神の全世界を滅ぼす計画の中で安全です。これなくしては、危険です。千年ぐらい、その今の聖餐式の影になる、模範のことをしていました。それは本質のものを食べていた訳ではありませんでした。イエス様が来られるまでは。



出エジプト記12章11~13節
「あなたがたは、こうして、それを食べなければならない。すなわち腰を引きからげ、足にくつをはき、手につえを取って、急いでそれを食べなければならない。」
なぜ?
「これは主の過越である。」
12節
「その夜わたしはエジプトの国を巡って、エジプトの国におる人と獣との、すべてのういごを打ち、またエジプトのすべての神々に審判を行うであろう。わたしは主である。その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。わたしがエジプトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう。」

 これは主の過越です。その言葉の意味について私は語りたい。あなたの上を神様が飛んで、通り越すという意味ではありません。神様の裁きがおとずれる時、神様はあなたの上に立っています。あなたを守ります。それはあなたを覆っている傘のようです。裁きが打ちつける時、その裁きがあなたに触れません。神様があなたを覆っています。裁きがあなたを通り越すという意味ではありません。それは裁きがくる時、神があなたの上を覆われるので、あなたは安全だということです。その言葉の語源となるへブル書の言葉は、鳥が羽ばたいて子供の上を覆っているような意味です。


イザヤ書31章5節
「鳥がひなを守るように、万軍の主はエルサレムを守り、これを守って救い、これを惜しんで助けられる。」
 この“惜しんで”は、過越と同じ言葉です。鳥のように神様があなたの生活、あなたの家族、あなたの教会、あなたの上に鳥が守るのと同じように、神様はあなたを守ります。神様が全世界のバビロンを滅ぼす時、あなたの家の上には、神様の守りがあります。その羊の体を食べ、その羊の血が上にのせてある家だけが守られます。でも正しくないなら、その守りを得ない。


コリント人への第1の手紙11章27節
「だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。」
 私の上には常にイエス様の血がなくてはならない。主が戻られる時まで、主の血を私はずっと覚えておかなくてはならない。どのようにしてですか?主の体とその血をいただくことによってです。私は子羊の血と肉を準備するために私は食べます。そして神様が審判を下される時、私は安全です。それで私たちはこれを共に行います。それによってBTGが安全であるからです。ブリッジングザギャップのドアのかもいに血を塗ります。主イエスの体を私たちは共にいただきます。神がバビロンを滅ぼされる時、私たちの上に覆い留まって、はばたいて下さい。主はおっしゃっています、ドアのかもいに血がある者の家のみを、私は覆い隠すと。私たちがこの聖餐を行う時、主の死を思い起こしてする時、私たちの守りの契約を思い起こしていることです。

 私たちは主のものです。私たちが主のものであるというしるしは何ですか?彼の血、彼の体です。イエス様は言われます、「私の体をあなたがもし食べないなら、私の血を飲まなければ、あなたは私のものではありません。」ですからイエス様が十字架で死なれる晩、世界中に審判を下される時です。弟子たちにこれをしなさいとおっしゃっています。パンを取ってそれを裂かれ、これは私の体だ、ぶどう酒を手に取って、これは新しい契約の血だ。私たちはもはや、実際の羊の肉を食べるのではない。そして実際の子羊の血を、家のかもいに塗るのではない。イエス様は古い契約から新しい契約へと移行させました。そして今あなたはパンとぶどうジュースを飲みなさい。けれども神の守りを得るための同じ方法です。それは実際の子羊ではなく、実際の子羊の血ではありません。


 パンとぶどうジュース、それが指しているのは、「私の体です、私の血だ。」そしてそれを食す全ての者が、キリストの中に結合されている。世に神様が裁きをなさる時、彼の守りの下にいます。ですから教会から出たら、その守りから離れます。そこは神様の裁きの場所。これは裁きの食事です。これは出立するための食事です。主の死を思い起こすための食事です。これは祝福の食卓です。祝福とはいったい何ですか?その祝福は、神が全世界に裁きをなす時、あなたが安全です。それが祝福です。それはあなたをキリストと一緒にする食事です。そしてそれは私たち個々を一人一人を結合させる食事です。そして私たちは主の食卓に預かることを今からして、この聖会を終えたいと思います。なぜなら神様は、世を今震るうわされています。私たちは震るうわれない国を受けています。その神の国のしるしとは何でしょうか?イエスキリストの体と血です。それが私たちを世のものとは異なるものとします。私たちはこの血が、かもいに塗られています。彼の体が私たちの体の中にあります。
 それは素晴らしいことです。
 

0 件のコメント:

コメントを投稿