2013年8月20日火曜日

なぜ愛媛なのか


今回は7月の月報に掲載された、2013年5月19日(日)の主日礼拝のメッセージをご紹介します。

「なぜ愛媛なのか」 ~新会堂建設地に関して~
 クライストチャーチ 久松ひろ子 教師

 「なぜ愛媛なのか」という主題で、先週木村先生の方から皆さんに、新しく愛媛の地に私たちの教会堂を設立する計画を持っていますということを発表しましたけれども、そのことについてですね、どうして愛媛の地にこのような計画を持ったのかということを、もう一度私の口を通して皆さんにお伝えしたいと思いました。これは私たちの教会の、第3子が誕生するという意味です。

 ここ倉敷教会が母体となって、2つ目の教会が岡山にできました。そして3つ目の教会を、愛媛の地にこれから建てようという願いを持って、進めて行こうと思っております。きちんとした形でお話させていただくのは、今日が初めてになりますね。それで今日は、少し詳しく話したいと思います。その話す理由は、ただ「ああ、そうなのか、愛媛に新しい教会ができるのか。」と言うような、そういったことではなくて、私たちが何かを知る時、また、教会からこういった情報が流される時、皆さんはそれをただの事実として受け取られるのではなくて、なぜこのような所に至ったのか、なぜこのような計画が組まれたのか、そういった観点を持って、聞いていただきたいと思います。

 なぜならそれが、私たちが真に体としてお互いを知り合うということなのですね。私が今日皆さんにお伝えしたい一つのことは、私たちはキリストの体であって、それぞれがそれぞれの分を、務めを、本当に良く果たして下さっている。そのことに目を向けて下さって、その人たちに対する、それは目に見えない部分かも知れない、けれどもその一つ一つが本当に大切な役目を荷って下さっているということを覚えて、互いに感謝し合う心を持っていただきたいと思っています。私たちはキリストの体です。互いに徳を高め合うために集っています。そして私たちが何かを新しくやって行く時も、単なる知識ではなくて、それが本当にどのような意味があるのか、これは私たちにとって一体どんなことなのだろうかという関心を、常に持っていただきたいと思っています。




 それでですね、この経過について少しまず具体的に話させていただくと、使徒として私たちの教会の監督をして下さっている、カップ先生がOKを出して下さったということが、私には一番の嬉しい出来事でした。この事が皆さんにとって、どのような意味があるかということを、もう少し詳しく話したいと思います。

イザヤ書66章7節 
「シオンは産みの苦しみをなす前に産み、その苦しみの来ない前に男子を産んだ。」
という御言葉を皆さんが聞いた時、これは一体どういうことであろうかと、たいがいの方は思われると思います。私もこの御言葉を読んだ時に、これは矛盾した言葉のように思いました。これが本当に、実はとても大切なことなのです。

 私たちが今改革の教えの中で、何個かのプラグインをいただきましたけれど、ウッドロフ先生がおっしゃっているプラグインの中で、『決意された意図の論点』というのがありました。それは最初神様がウッドロフ先生に啓示された、キリストの体全体に対する何かをあなたにさせるというこの約束が、実は20年後、私たちが去年の夏に迎えた合流の平原であったということを証明するために、決意された意図の論点というようなことで語られたと思います。

 その話の内容、それはアブラハムがイサクを捧げた時の事で説明して下さいました。アブラハムがイサクを捧げる時、アブラハムにとって、それは約束された子供であって、その子供を捧げよという神様の意図は、彼には理解できなかった。けれどもアブラハムが捧げたその瞬間に、決意したのではないとおっしゃったことを覚えていますか?アブラハムがイサクを捧げる映画を、ここで少し皆さんにお見せしましたね。その時、アブラハムが殺そうとしたのは、その時決意したのではなくて、それよりも前に、神様がアブラハムに語られた時点で、彼は既にその決意をしていたということを言われました。

 だから決意した時から実行に移されるまでには、時間があり、プロセスがあり、その期間彼は何度もそれを考え、思い直し、躊躇して、「ああ、やっぱりモリヤの山へ行くのはいやだ、神様この子だけは私の大切な子供ですから、どうぞ助けて下さい。」というようなことも思ったでしょう。色んなことを思ったでしょう。でも最終的にアブラハムは、決意したことを実行に移したという話をされました。その話の意図が何であったか、皆さんは多分とらえにくかったと思います。でもその話の意図が結局何であったかと言いますと、ウッドロフ先生が合流の平原を迎えたのは、その日に迎えたのではなくて、既に20年前にあったことを実行に移したのだ、ということでした。


 私が今日皆さんに本当に分かっていただきたいことの一つは、なぜ愛媛の地に私がどうしても建てたいと思うようになったのかということが、実は私の40年前のビジョンに基づいているということをお伝えしたいのですね。ウッドロフ先生は20年ですが、私は40年です。私が救われたのは22歳の時でした。今年64歳になりますが、22歳の時、私も神様のために何かしたいという願いが起きました。でもそれをどのように現して行くかは、非常に困難でした。ただ救われて、イエス様を信じただけの私が、どのようにしたら神様のために働くことができるだろうかと考えました。

 その中で私が最初に出逢ったのは、カップ先生です。もちろん救われた教会の牧師先生はおられました。でもカップ先生が私たちの教会に私が救われてしばらく経って、メッセンジャーとして遣わされました。その時私がカップ先生のメッセージを聞いた時、こんな聖霊の息吹を持って語られる先生を初めて見ました。賛美はいつも同じです。「イエス様が今ここにいます。手を上げ、その清き御霊に触れよ。」って、歌われると聖霊がサーと働いて、本当に聖霊の息吹を感じたのですね。「あーこんなメッセージずっと聞きたいなー。」と、思いましたけれど、残念ながらそれは、カップ先生が日本を去る前のファイナルメッセージというか、最後に関西周辺の地域の教会をまわってですね、最後のメッセージをしてアメリカに帰るという前のメッセージでした。

 その時カップ先生が、生駒の聖書学院の学院長さんとして、10年近くいらっしゃった方であるということを、初めて知りまして、そして私は本当に私も聖書学院に行って学びたいなという思いが起こりました。けれどもその時それを私の牧師先生に申し出ましたが、「いえいえ、あなたは女ですからいけません。あなたが男だったら許可しますが、女であるあなたにはそれは許しません。」ということで、私は道が閉ざされてしまったのです。それでも神様に対する情熱、神様のために何かしたいという私の心の願いはありました。それで、私の献身の道は、直接的に神様に仕えるというよりも、夫のために仕え、そしてまた夫の両親を養うために働くという所に行ったのですね。で、そのポジションでずっと縁の下におりました。


 でもやっぱりそのビジョン、私がなぜそんなにまで田舎にこだわるかといいますと、私は22歳の時まで、本当に神様のことを教えてくれる人は誰もいなかったし、田舎にも教会は無かったのですよ。それから初めて教会に行った時に、また、生駒の聖書学院を見た時に、私は大学とか、そういう世の中の一杯の情報は得たけれども、そういった教会があるとか、聖書学校があるとか、そういったものは何も知らなかった。

 だから私はやはり田舎に教会が必要だという、その必要性が、本当に私の中では重かったのです。私の田舎は三間町という所です。三間町には教会が一つも無かった。私はイエス様の名前を、22歳になるまで聞いたことが無かった。だからどうしても教会をつくりたいという夢が捨て切れなかったのです。

 その捨て切れないことの一つには、私が救われる前、本当に私は絶望し切っていました。大学2年生の時、20歳の時に、本当に大学を辞めたいと思うぐらい、自分に絶望した時期があったのですね。私の心は本当に暗闇だ、自分自身で私は何者か分からない。こういった私が生きて行けるだろうか。何を信じて生きて行けばいいのだろうか。一番信じられないのが私自身であるとすれば、私はもう生きておれないと思ったのです。

 その時から2年間、22歳になるまで、私は本当にノイローゼでした。だから病気になる人、精神病にかかる人の精神状態は良く分かります。まあそれでもとにかく学校は卒業しないといけないと思って、卒業だけはしました。でも卒業する頃、これから一体社会でどのように生きて行ったらいいのだろうか、大学は真理を学ぶ所だと言ったけれど、真理って何なのだろうかって、真理なんか分かる訳がない。真理なんかどんなに本を読んでも分かる訳がない。図書館の本全部を読むこともできない。だのにどうやって自分の力で真理に達することができますか?もう絶望でした。

 でも卒業する頃、神様が私に一連の夢を見せて下さったのです。その夢の一つが、この御言葉でした。

イザヤ書2章2節
「終りの日に次のことが起る。主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき、」
という所にありますが、私が本当に絶望の果て、すり鉢の一番下にいて、よじ登っても、よじ登っても、たどり着く事ができない状況で、これからどうやって生きて行くのだろうと思った、絶望という言葉さえ出す人はまだいい、私は絶望という言葉さえ、口にすることができないというぐらいの深い絶望感に満ちておりました。

 その時に神様が一つの夢を見せて下さった。それは真っ暗な夜、天から一つの星が、この地上に落ちて来ました。そしてその星の周りが明るくなって、そこに何かしらキャンプファイヤーのように沢山の火が集って、そして沢山の人たちがその周りに集って来て、その人たちは喜びながら、歌いながら列をなして行進して、一つの山に向かって行っていました。で、その山の頂上に、神殿のようなものが見えたのです。ああこれ御宮だわって、その時の私の感じではですね。一体これは何なのだろうかって、その時思いましたが、それを見た時、私の心に、本当にふっと光が灯ったような気がしました。でもそれが、神様が見せて下さった幻であるということがまだ分からなかった。


 神様が私を導かれたのは、不思議なことに、クリスチャンホームの家に下宿させていただいたのですね。それから半年ぐらい後に教会に導かれて、イエス様を信じるようになりました。そしてイエス様を信じるようになって、聖書を読むようになった時、ああ本当に神様は終りの日にこのように、沢山の人々が主の家の山、教会に向かってなだれ込んで来る日が来るということを約束されているそれならば、本当に教会はなくてはならないという思いが強くなりました。

 そして一度、カップ先生が私たちの教会に、預言者として遣わされた時に、「私は田舎に行きたいのです。」という自分の思いを言いました。けれどもその時カップ先生は、「いいえ、あなたはこの教会で牧師夫人として、また、姉妹たちに対する色々なお世話をする務めがありますから行ってはいけません。」と言われたのです。ああ私はやっぱり行ってはいけないのだ。ああ、私は羽を付けて飛んで行きたかったのに、行けないんだ。と思って、またそこで再び道が閉ざされたのです。

 そしてそれから後、皆さん御存知のように、私はこの教会に仕えよう、皆さんに仕えようというそのポジションを守って、10年ぐらい来たのですけれども、合流の平原が終わった後に、どうしてもこのビジョンを私の中で封印したまま、この人生を終わるのかなって。そしてそろそろ次の世代の人たちにバトンタッチしなければならない時に、最終的に私の人生の完成を、どのようにしたらいいだろうかということを思うようになりましたが、その時にやはり、田舎にもう一度教会をつくりたいという思いが、また沸いて来たのです。閉じ込めておいたのですが、この封印をどうしても破らなくてはならないという思いがやって来ました。

 そしてアイパッドで、愛媛県の不動産屋さん、土地、そういうものを、しらみつぶしに調べてみました。そしたら不動産屋さんが、皆さんにお見せした、あの土地と建物を見せて、これだったら簡単ですよ、何もかもありますよと言われた。これはやはり神様が供えていて下さった場所だったのだな、ということを確認しました。しかもそれが600坪近くあって、2千5百万円を2千3百万円にしてあげると言われて、そしてそれを坪単価で割ると、坪4万円。坪4万円はものすごく好条件です。岡山の土地も坪4万円でした。

 だからこれはもう買わないといけないと思い、1月にカップ先生に言いました時に、「ああ、それはいいですね。今度僕が一緒に行って、その土地を見て、その土地の石を拾って来て、祈ってあげましょう。」と、言って下さった。私は本当に力付けられました。そして5月に来て下さって、そしてカップ先生が見て下さった時、ああこれは本当に御心の土地なのだなということを確認できました。

 それで私は皆さんに、これを紹介するということになったのですが、その中で私も色々な悩みと言いましょうか、一番悩んだのは誰が行くかということです。もちろん私は行きますが。その時に、神様が私に下さった御言葉がこれです。
「私自身が一緒に行くであろう。そしてあなたに安息を与えるであろう。」
 私は本当にこのことが、一番気掛かりだったのですね。神様が一緒に行って下さらなければ、私は一人で行く事ができない。そして何でも神様が共におられないことをすれば、それは後々まで良くない結果が出るということが、いつも心に分かっていました。無用の長物と言いますか、役に立たない肉のものが残るという意味です。私が勝手に自分の考えで教会を建てても、それは神様が共にいらっしゃらないのだったら、それはただの建物、博物館、記念館、になってしまう。だから神様、絶対あなたの保証が要ります。いつも神様に問うていました。すると神様が、「私が共に行く。」と、言って下さったのです。


 久松先生の仕事はやはりジェラート売りです。神様の食物、天の食物、この改革の教えを、これからはあらゆる地方教会に行って流す務めがあります。でも私にはそういう務めがあると思えなかったのですね。でも最後はどのように私の人生を完成させようかと思った時に、やはり教会をもう一つ起こさなければならない。教会を起こすというより、やはり田舎の地に目を注ぎたいと思った訳です。

 皆さんはこの辺におられて、教会はどこにでもあるから、それ程貴重性を感じないでしょう。でも本当に教会の存在は必要です。本当にどうやって伝道したらいいだろうかと思った時に、先週岡山でこの話をした後、倉庫については何の用途も分からなかったのですが、しばらくして神様が、私に入れられた思いが、「あっ、孤児院かな!」と、思いました。本当に神様を知らない子供たちが、そこでしっかり養われるならば、次世代に信仰を残す事ができます。これが最終的な神様の御心であるならば、私はそこに向かってやって行こうという思いが、今与えられています。大きなものではない、でも何事もですが、小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実だとあります。

 だから皆さんも、今私たちの教会のこのビジョンが、神様から来たものであるということを本当に覚えて下さって、そして私がこのような話をした時、あれはひろ子先生のビジョンだと思わないで、神様が私を通して皆さんにこのビジョンを共有させようとしておられる、分与しておられるという風に思って下さい。何事も共有の時代です。

 私たちは共にこれを分かち合って、そして共有し、共感し、共に荷って行く神の家族、共同体と思いますから、私は皆さんにこれを分かち合いました。実際的な事はまだ何も分かっていませんが、このビジョンに皆さん賛成して下さったと信じます。ありがとうございます。


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