2013年9月16日月曜日

コングレスの全体像

今回は、8月のクライストチャーチ月報に掲載された、久松政一主任長老が礼拝の中で取り次がれた内容をご紹介します。

「コングレスの全体像」 2013年5月5日(日)
 クライストチャーチ 久松政一 主任長老

マタイによる福音書16章19節
「わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう。」
 これは、天と地が一つにつながれているということを、現している意味でも使うことができると思います。それで私は今日、「つながり」ということについて話したいと思います。今まで私たちはこのBTG(ブリッジング・ザ・ギャップ・ネットワーク)のまだ前身であった2004年に、ウッドロフ先生が日本にいらっしゃってから9年、BTGが発足した2007年から、大体5~6年経っている訳ですね。その中で私たちはいろんな教えを学んできましたけれども、皆さん、全体像ではお分かりになっているかどうか、これは本当に大切なことです。なぜなら1回、1回のセミナーにおいて、非常にインパクトの強い重要な教えを沢山学んできました。それにどのように私たちがつながって、そしてその中で明確なものを、はっきりと達成して行くことができているか、それは非常に大事なことですね。よく例えで言われるように、象というその動物の一部分だけを見ている、というような例えをよく聞きますよね。一つ一つの部分、それは分からない。けれどもそれがどのようにつながって、全体像が、象であるという。それは莫大な量ですね。ウッドロフ先生のおっしゃる言葉で言えば、すごい埋蔵された資源ですね。でもそれを私は今日、簡単にその全体像を見ていただきたい。ある人はまだ分からないという方もおられるかも知れない。ある部分は分かった。でも全体はどうなのか?ということを理解するために役に立てればと思っています。




 まず一つ目は、私たちはこのカップ先生、デイビー先生を通して、1日セミナーとか、2日間セミナーとかいうものを、以前よく持ちました。その中でいつも、「変わらなければならない。」と言うことを通し、そこから始まって、「これは完成を目ざして進む働きだ。」と言い換えれば、完成、成熟、終り、そういう言葉が使われていますけれども、この、終りを目ざして進む働きであるということを、絶えず私たちは理解しないといけない。そこにどんなに焦点を当ててこの学びを聞いていくかということ、これは非常に大事です。 この最後の、終りの時代に私たちが生きているという学びをしたとしても、もし実際に私たちにとって、これは別に終りの時代ではなく、生活をする点において、何も変らない。今まで通りの、その歴史の積み重ねのようなもの。と、思っているのであれば、その教えは無駄になる。それゆえ、そこに向かって私たちは進みましょう。これがこの教えの、一つの大きな意味であると思いますね。

 ですからこの意識が無いと、今まで私たちもそうでありましたけれども、素晴らしい教えを繰り返して、色んなセミナーをしても、そして私たち地方の教会が、それぞれのビジョンを持って、私たちは今年一年、この信仰によって進みましょう!それぞれの世界中の地方教会が、神様からそれぞれ聞いたと言われるところの、そのビジョンと信仰に基づいてやっていますけれども、神様の目から見たら、それは本当にばらばらですよね。でも神様は、「この時代は終りを目ざして進む働きが必要です。」と、おっしゃっている訳です。ですから意識の中で私たちは、この教えは終りに向かって進むのだということを明確にしておかない限りは、いつも聞いていることが、象の一部分のようになってしまう。そういうことをよく理解した上で、私たちはこの教えを進めていきたいと思います。


イザヤ書2章2節で私たちは学びました。
「終りの時には、もろもろの山々の峰よりも高い一つの山がある。」
 それは終りの日である。だから今は本当に終りの時代。言葉を変えて言うなら、一つの旅をするなら、必ず終りを持って完了しなければならない。聖書の中でイスラエルの民がカナンの地に向かって進む、これを通して学びました。このようにイスラエルは実際にその歩みを通してカナンの地に入った訳です。これは終りを告げた訳ですね。私たちも、終りを告げる時代に生きているということを意識しなければいけない。強く終りを目ざして進む働きであるということを意識することが必要だと、そのために私たちはその山について学びました。

 最初はサタンについて、私たちはこのバビロンに対して、「悪魔よ出て行け!イエスの名によって。」と、私たちはそれによって全く終りが見えなかった。そういう歩みを教会はしてきた中で、神様はこの高い位置にまで昇って来なさい!その時に始めてこのコングレスは、終りという領域が見えるということを学んだのですね。そして終りに至るために、私たちは色んなことを学んでいる訳です。

 終りを目ざして進むのであれば、その資源を私たちは神様からいただかなければならない、それが例えばパートナーシップとか、また、神からの啓示とか、また権威とか、また視野、それから青写真、全体像ですね、そういうものが見えなかったら、終りに向かって進めないですね。そういう一つ一つの事において、私たちは学んできている訳です。例えば成熟、例えば神様との契約、それから神との地球規模的な構造、こういうふうな言葉を、一つ一つ私たちは理解するために、今まで学んできました。それは終りを告げるために、旅を終らせるために、最終的にそこに至るために、私たちは今、学んでいるというこの考え方を、強く強く持たなければならない。そうでなければ今までと同じように、教会は人数が増えること、献金が多くなること、そして色んな楽器を沢山買って、そして素晴らしい賛美礼拝を捧げること。これらは全部悪いことではない。これは良いことです。

 でも終りを告げるための働きではないです。この次元と全く違う次元の領域に、神様は進めたいと願っていらっしゃる。これが無かったら、終りが来ないのですよ皆さん。終りが来なかったら聖書は完成しません。次の時代に入れません。アダムが神様からいただいた、「治めなさい。」という、「統治しなさい。」という、その神様からの教えは、まだ実現していません。それは新しい天と、新しい地において、違った領域にまで私たちは進まなければならない。そのためには、終りを告げなければならない。ですから私はまずこの終りを目指して、このコングレスの学びは進んでいるのだということ。神様はそれを強く願っておられるということですね。だから私たちの目は、飛行機でいえばいつも着陸に向かう、終りに向かう、完成に向かう、そして私たちはこの時代を終らせる。罪と呪いの世界を終らせる。その時代に生きているということを覚えたいですね。

 ヘブル人への手紙11章にあるように、アベルも、エノクも、ノアも、アブラハムも、イサクも、ヤコブも、サラも、全部旅をしていたと書いています。そして彼らの本当の故郷はカナンじゃないと書いていますね。もっと素晴らしい、天にある故郷だったと書いてあります。だからアブラハムの思いの中には、カナンの地が最終的な終りじゃなかった。彼は信仰によって、望みを持って、最後の最後まで自らの与えられたその人生における歩みを完成したのです。だから彼は私たちを本当に強く待っていますよ。今の時代の愛する聖徒たちよ、私が受け継いできたこの最終的な終りに向かって、あなた方は完成するためのその目をいつも持って欲しいと、アブラハムは言っているにちがいないですよ皆さん。なぜならまだ完成していないからです。


   二つ目は、この使徒的改革というこの言葉は、デイビー先生が一回この教えをして下さいましたね。
へブル人への手紙6章1~2節
「そういうわけだから、わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか。今さら、死んだ行いの悔改めと神への信仰、洗いごとについての教と按手、死人の復活と永遠のさばき、などの基本の教をくりかえし学ぶことをやめようではないか。」
 このように書いていますね。レストレーションの真理を私も学んできた者として、私が救われた頃は、洗い事についての教え、すなわち洗礼でも、もう一つの洗礼ですね。すなわち、聖霊のバプテスマというその真理の中で、私は救われました。それから按手という真理も入ってきて、そして今、このコングレスの教えは、死人の復活と永遠の裁きという真理の中にあると信じます。ですから最後のこの教えを学んだら、デイビー先生が言われたように、これを今は実行するということ。そうでなかったら、恵みを雨として語られていますが、雨が降って、土地を耕して豊かにさせていながら、農作物が豊かに育たないなら、その地は呪われると書いています。

 私たちはこの聖書の素晴らしい真理を全部知った上で、なおかつそれをただ聞くだけで、行わない者であったら、私たちは本当に、神様の前に厳しい裁きを受けなければならない。よい資源をもらっておきながら、神様が私たちに期待して、それを与えているにもかかわらず、それについてただ論じ合ったり、そしてまたその教えの中で、ただ満足してしまう様で、実際の自分の生活や自分の歩みが、キリスト様に喜ばれるような歩みの中に、この真理を適応していかないなら、私たちは本当に、神様から呪われる者になってしまうかも知れません。


 ですから死人の復活というのは、まさに今、学んでいるその一つである、私たち自身がキリストと共に死ぬということ。本当に先程、「あなたはバカです。」と、自分自身に言ったように、自らいつも死ななければならない。それを実践しなければならない。死んだら生きるという真理を私たちは学んだはずです。死ななければ生きないのです。肉が死んで、初めてキリストが生きる形に私たちはある訳ですね。実際的に死人が甦る、そういう事がこの時代に起こっても、それはここで言っている事ではありません。でも多くの教会は、そういう奇跡、しるし、能力、力、こういった目の当たりに見ることができるようなもの、外側に影響を与えるようなものによって、クリスチャンが確立されるような教会を今まで求めてきたのです。

 けれども内面的なものにおいては一切関わっていない。メッセージでは語るけれども、実際の生活では全く違う事をやっている。そのような考え方でこの日本の教会は進んできた訳です。奇跡としるしは神の栄光です。素晴らしいです。否定してはいません。でもそれが今の時代の中心ではない。本当の中心は、私たち自身が死ぬ事です。キリストと共に。そして私たちは、キリストが生きるようになるのです。それが死人の復活の本当の教えだと思っています。生きたら、イエスキリストが天に昇られたように、天に向かって体を伸ばす。目標を天に向かって、すなわち高い位置に、神様の、イエス様の価値観、イエス様が考えられた考え、それこそが私たちが求めているところの永遠という価値観です。その領域に立つなら、永遠の裁きが始まっても、この地上で恐ろしい事が起こっても堅く立つ事ができます。終りの時代ですから、終りの時代に豊かになることはありませんよ皆さん。最終的な終りの時代に私たちが今入っているなら、経済的な事も、社会的な事も、またあらゆる医学の領域においても、教育においても、自然的においても、恐ろしい出来事が次々と起こってくることは、間違いない事実です。そういう中で神様がこのようなことを行われる中にあっても、永遠という価値観の中で私たちが生きる時、この地上の出来事によって、左右されるような者とはならないのです。この使徒的改革の教え、それは死人の復活と永遠の裁き、最後のこの真理の中に入ってきていると私は確信しています。


 終りということについて、最初に語りました。使徒的改革ということがどういうことかについては今話しをしました。今度は、キリストの体が一つになるという働きですね。それは皆さんがウッドロフ先生の、この最後の成熟への追跡の中で、何度も語られたことを私はちょっと読みたいのですね。「キリストの体全体。」ウッドロフ先生がこの働きに従事するようになるということは、誰も今までしたことの無い働きなのです。皆さんもそうでしょ、御自分の家庭の事に中心を置きますよね。そのためには時間も犠牲も惜しまない、労力を費やすことも喜びとします。これは地方教会を当てはめたとしますと、地方教会の牧師は自分の与えられた教会を発展させることだけに心を注ぎます。

 でもそうじゃなくて、神はウッドロフ先生に、キリストの体全体のために働くことをしなさいと言ってらっしゃる訳です。一つの教会だけでも一致させるということは至難の業です。神様はウッドロフ先生に世界中にあるキリストの教会に影響を与えるための働き、それは終りを告げるための働きですよ皆さん。なぜならイエスキリストは一つになるということの祈りを、至聖所の祈りという言葉でよく聞きますよね。
ヨハネ17章「父よ、あなたと私が一つであるように、彼らも一つにならせて下さい。」
 これは本当に切なる祈りです。これによってウッドロフ先生が涙を流したということを私たちは聞きました。あらゆる世界中の教会が、正しい歩み方をしていなくて、その教会を神様は、私を通して一つにならしめるための働きをさせようとしていらっしゃる。その考え方で祈る時、彼は涙を流したと、それは本当にイエス様の心ですよね。イエス様が一つになるために祈って下さった。最初の十二弟子は、もう一つになるどころか、俺たちの中で誰が一番偉いのか。いつもそれでした。でもそれが変ってきましたね。イエス様が一つになるためにどれだけ涙を流されたか。人々のためにどれだけ涙を流して祈られたか。

 その祈り、その願い、その心を、神はウッドロフ氏に語られたのです。だからこの働きは、一つになる働きです。誰も好んでしたいと思う働きではないのです。何の利益も得ない働きです。だからウッドロフ先生が、この20年間働きを進めてこられた中で、本当に皆から非難されたり、懐疑的になられたり、本当に批判的なものを一杯受けてこられました。この働きはイエス様の御心の継承です。そしてそれは終りの時代の不可欠な教えです。本当の意味で一つになろうとしたら、肉を全部捨てなければならない。自分の与えられている物を捨てて、この真理の中に入るために、全部犠牲しなければならないですよ。それが神が与えられた器だけ、それが使徒です。だからウッドロフ師は、パウロ先生と同じぐらいの使徒です。彼は言います、「私は資源です」と。その言葉を聞いた時、この器は本当にすごいなと思いました。しかし彼の中には高慢は見られない。すごいね。パウロ先生と同じような、その人物に神は焦点を当てたのです。それは御自身の御心を行わせるためです。それが目的です。彼にその素晴らしいものを与えられた主をいつも誉め称えましょう。


 だから三つ目は、キリストの体が一つになる働きです。これは誰もしたくない働きです。でも私も今年に入ってから、少しずつそれをしようと思っています。

 四つ目は、「神の主権」の中に生きる。神様の主権というのは、愛もあるけれども、恐るべき能力、全てを支配している力、創造主の力、この主権という中には、最後の神様の主権をこの世界中の国々の上に立っておられる本物の御方が、現そうとしておられる。その中にあって、キリスト者が価値観が高くなかったら、「神様どうしてこんな事が私の家に起こるのですか?」と、言ってしまうようなクリスチャンだったら、幼子のようなキリスト者ばかりだったら役に立たない。この終りの時代のキリスト者は、高い位置にいなくてはならないでしょ。神がなさる全ての事は栄光です。だから神の主権の中に自分も一緒にいるということは、神の心が分かっているということです。だから神がこの世界に何かをなさっても、驚くことなんかないです。

ハバクク書3章17~19節
「いちじくの木は花咲かず、ぶどうの木は実らず、オリブの木の産はむなしくなり、田畑は食物を生ぜず、おりには羊が絶え、牛舎には牛がいなくなる。」
最悪の状況です。これからそういう事があなたの環境の中に起こります。しかし18節はこうです。
「しかし、わたしは主によって楽しみ、わが救の神によって喜ぶ。」
 その神がなさった業、主よ私はそれを楽しみ喜びます。あなたと共に、パ一トナ一として、神の祝福の中に生きる者として、私たちは喜びます。楽しみます。という高い位置の、成長したクリスチャンたちが、多くなるならば、私たちは終りに向かって進む時、何も恐れないです。本当に終りに近づけば近づく程、その主権は厳しくなります。でも何にも問題ない。あなたが本当に自立して、高い位置にいるクリスチャンであるなら、「いちじくが花咲かず、ぶどうの木が実らない、経済が最悪の状況になる中で、私は楽しみ喜びます。」と言えるでしょう。だから神の主権の中に私たちはパ一トナ一として生きる、これが素晴らしいこの教えです。


 五つ目は、内側が変革されることです。内面が重要ですとか。色んな言葉で私たちは教えられてきました。内側が変革されるために必要な教えを私たちは学びました。でもまだ学んでおられない方、まだ本当に理解されていない方は、この損を算出するということ、人の出発点の背景を再定義するということ、キリストの死と同じ状態になること、天に向かって全神経を注ぐこと、これはこの教理において導かれて、私たちは変革されていくということを、ウッドロフ先生は語って下さった。これを私たちが実践するなら、私たちは先程のようなキリスト者になれるのです。だから内側の変革という考え方が、この教えだということを言っています。

 例えば最初にウッドロフ先生が来られた時に、こんなことをおっしゃいました。賜物ではなくて人格です。また、働きではなくて目的です。「主よ私は○○しました。」というのは働きです。でもイエス様は、「お前を知らない。」こんなに悲しいことはないですよ皆さん。彼は一生懸命働きをすることが神に喜ばれることだと思っていたのですけれども、目的が明確でなければ、その努力は悪い。また、建物でなくその人々の心がどうなのか。それが本当に大切だということです。また、物質的な繁栄ではなく完成度です。また、組織ではなく人々との関係付けです。また、行動よりも動機付け。また、祝福よりも神の栄光。そのように、色んなことをウッドロフ先生は、もう始めから語っています。


 だから私が今日言ったように、終りということ。それから使徒的改革ということ。それからキリストの体が一つになるということ。神の主権の中に生きるということ。内側の変革、これ全部コングレス。コングレスという言葉を変えたら、御国の実体。コングレスとは、あなたを見たらイエス様が見えるということです。そのために救われました。私たちは自分の幸せや喜びを得るために救われたのではありません。神様の栄光を現す時に、初めて人が造られた真の喜びと楽しみを得ることができます。



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