2004年3月 主日礼拝より
メッセンジャー:久松政一牧師
(クライストチャーチ主任長老)
イザヤ書55章8~9節
「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。 天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、 あなたがたの思いよりも高い。」
こう書かれています。
神様の思いと、人の思いは違うということを私達は覚えなければなりません。
ところが私達は神様と私達の思いが、「同じだ!理解出来る。」そういうとらえ方の人達がよくいます。
そこで、私は今日聖書からその事についてお話したいと思います。
+ + +
創世記2章9節まさにそれはエデンの園、
天国を象徴している所ですが、その天国の真ん中に神は命の木と、善悪を知る木と2つ生えさせられた
とあります。この命の木について、神様は「自由に取って食べていいですよ。」とおっしゃっています。 神様は、
「この命の木の実を人間は食べなさい。 しかしもう1つの善悪を知る木の実からは取って食べてはならない」
とおっしゃいました。これは、神様の思いです。
そして私はこの2つの木を考えてみました。 この命の木の実というのを、聖書はどんなふうに言っているのかな?どんな木だったのかな? まあ自然的に見れば、見栄えのする、そういう木ではなかったように思います。
聖書を見ると、この命の木というのは、これはすなわち、イエス様のことです。 命の木の実から取って食べていたなら、人間は死ななかったわけです。命の木ですから。 イエス様はこうおっしゃっています。
「わたしはよみがえりであり、命である。 わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。」
そうおっしゃっています。ですから、イエス様は命の木だったのです。
ですから命の木から私達が食べてさえいれば幸せだった。
その命の木は実際には、 どんなものだったかというと、イザヤ書の53章を見ると非常に明確に書かれているところがあります。
イザヤ書53章1~2節
「だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれに現れたか。彼は主の前に若木のように、 かわいた土から出る根のように育った。 彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、 我々の慕うべき美しさもない。」
これは、イエス・キリストについて預言されている言葉です。
この所で、本当にイエス様が どんなに人から蔑まれたか、 人間の目で見たら2000年前の当時、何にも、神様の様に見えなかったのです。 むしろ、人間としてもあまり良い者でない者のように見えたのです。
ですからそれを例えて、乾いた根のように育った、この方が命の木の実であったのに、その当時、 せっかく救い主であるイエス・キリストが来て下さったのに、 その当時の人達はイエス様を拒絶した。
神様の考えと、人間の考えと、全然違ったわけですね。
その様に命の木はあまり美しそうには見えなかったのではないかと、私はそう思います。
聖書の中でイエス様は、
「狭い門から入りなさい、命に至る門は狭く、それを見いだす者は少ない」
と言ってらっしゃる所があります。
命の門、それは、狭いのです。という事は見出す事がむずかしいのです。
だから多くの人達が本当の幸せは何かとさまよいながら、得る事が出来ないで皆死んでいっているのです。
反対に滅びに至る道、その門は大きいのです。誰でも入って行ける訳です。
その様に今の世の中は何でもいい、自分の考えで皆広い門から入っているのです。
そして、 皆が一緒にいるから、皆誰だって、こんな事もやっているし、あんなこともやっているし、 人間なんかこんなものだと思って、皆そこから入っていっているのです。
けれどもだんだん狭くなるのです。そして最後は滅びに至る道があります。と、イエス様はおっしゃいました。
ですから、命に至る道は、これは狭い、言い変えればぱっとしない、「ええ!こんなの? こういうものが本当に幸せを与えてくれるの?」というような、そういう道です。
ですから、この命の木をアダムが最初に見た時あまり見栄えがしなかったのではないかなって、 私は想像するのです。
それに比べて、善悪を知る木の実については、非常に詳しく書いてあります。
創世記3章6節
「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、 その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。」
これについては詳しく書いてあります。
「食べるに良く」、これは他の所では「肉の欲」と 書いてあります。
これは具体的に言ったら”性欲”です。
正しい関係での性は、すばらしいです。 夫婦という関係においての性は、神は肯定的です。
しかし、夫婦という関係を超えた男女の関係、これは、呪いとして聖書は書いています。
性欲、 食べるに良く、という意味はそういう意味があるそうです。
それから「目には美しく」ですから、この善悪を知る木は見た目はすごく美しいから、 「ああ、おいしそうな!きれいな!魅力的な!」。
この、「目には美しい。」と言うのは、 目の欲ですから、当然これは、欲しい物は何でも手に入れたがる、”貪欲”です。
何でも欲しい物は手に入れたいという人間。こういう物を手に入れても、幸せは来ないのだと、 聖書は書いています。
それなのに私達は、この目の欲で、何でも、あれも欲しい、これも欲しい、 そしてそれを手に入れるためには手段も方法も選ばない。そういう人達が多いです。
それから3つ目、「かしこくなるには好ましい」。
もう今は、子供から大人まで教育に熱心です。
でも教育は人を救わない。 むしろ、うぬぼれさせます。そういう形がもう出来ているのですね、 この国でも、生まれた時から。「賢くなるには好ましい」、これは、”持ち物の誇り”と書いてあります。 これは、財産や、地位を、鼻にかけたりする心です。
でも、財産や地位を、 どんなにこの世の中は求めていることでしょう。 それを得るために、どれだけ努力し、犠牲していますか?しかしこれらによっては、 命の道を見出す事は出来ません。
イエス様は本当に乾いた根のように育ちました。 全く見栄えがしなかった。けれどもこの方を信じる時に、人はその永遠の命の道を見出す事が出来ると、 聖書は告げているのです。
何と神様の思いと、私達の思いの違いが明確にわかる事でしょうか。
+ + +
みなさん、どうでしょうか? この3つは結局、世の中の欲(肉欲・貪欲・高慢)なのです。私達は、この世の中の欲を求めて生きているみたいです。生活の向上、 人間は自分のしたい事をしたら幸せになれる。 自分が楽しい事をすることが、幸せな事だ! 世の欲というのは、こういう3つの全てのものが 含まれていると思います。
ヨハネという人物は、「世の欲は過ぎ去ります。」と書いています。
年代によって変化する世の欲は、過ぎ去るのです。 あの時は、欲しくて価値あるものだと思っていても、 それを手に入れて何年か経つと、もう価値がない。
皆さん、その様なものが幸せでもあるかの様に錯覚して来た人間、何と愚かでしょうか。
今も本当に価値あるものが何か、永遠に変わらない命に至る道を知らないで、 空しく生きている人々で満ちています。
イエス・キリストは、「わたしは道であり、真理であり、命である。」 と言われます。この方を信じて、私たちはまことの命を得る者となりましょう。
0 件のコメント:
コメントを投稿