2004年7月1日木曜日

立場を超えた愛







7月主日礼拝より

メッセンジャー:久松政一牧師
(クライストチャーチ主任長老)




ピリピ人への手紙1章1節 
「キリスト・イエスの僕たち、パウロとテモテから、ピリピにいる、キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、ならびに監督たちと執事たちへ。」
 ペテロの第2の手紙1章1節
「イエス・キリストの僕また使徒であるシメオン・ペテロから、わたしたちの神と救主イエス・キリストとの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を授かった人々へ。」


 彼らは自分達のことをキリスト・イエスの僕ですと言っています。キリストを伝える指導者達は自分達のことをキリストの僕と呼んでいました。僕とは奴隷のことでした。
彼らはキリストのためなら奴隷となったのです。彼らは自分の考えがなかったのでしょうか。彼らはクリスチャン達からは、非常に尊敬された人物でした。彼らは使徒でした。けれども彼らはキリストの僕と言っています。

私達はここに注目したいのです。なぜ彼らは僕とまで言い切るのか。それには次の御言葉を見たいと思います。
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 ピリピ人への手紙2章6~8節 
「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」


 アーメン!このことのゆえに、パウロ先生もペテロ先生も自分のことをキリストの僕だというこの肩書きを彼らは用いたのです。
私の信じているイエス・キリスト様が、私のためにどんなに愛して下さったか、という事を知ったら、彼らは、自分はえらそうに出来ない、又、どんなに使徒という素晴らしい立場を得たとしても、それは神が与えて下さった立場ゆえであって、自分の実力ではない、この様に受け止めていた。これはすべて、イエス・キリストの私を愛して下さった愛によって、私は今の立場を得ているのだということを、彼らは深く知っていたのです。私達もこのことを知りたいのですね。


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2000年前イエス様が、神という立場を全く無視して私達人間を愛するために、人間と同じ姿になられた。それなのに人間はイエス・キリストを無視して神とも思わず、彼をむしろ反対に人間の一番低い最下位、十字架にまでつけた。十字架は呪われた人の象徴ですから一般の人間が受ける刑罰ではない。
人間として一番最悪の生き物として、そういう者が架かる処刑の方法です。ですから、イエス・キリストというお方は神様から人間になられただけではなくて、人間の一番最悪にまでなられた。それでも人間を愛された。

 今でも多くの人達が、「キリスト?私になんか関係無い!」と言って、キリストを真の神として認めていない。認めていないどころか否定し、さげすんでいる人達も大勢いる。
けれども、イエス・キリストの愛はこの十字架に至るまで愛して下さった。そんなにまでイエス様は肩書きを捨てただけではなくて、私の信じているイエスは、奴隷以下の状況に私のためになって下さったのに、どうして私がキリスト・イエスの僕という肩書きを恥ずかしいと言えるだろうか。と、彼らは思っていたに違いありません。

彼らは知っていたのです、キリストは神であられたにもかかわらず、それを固守すべき事とは思われず、かえって己をむなしうして、十字架に至るまで、最後まで従順に歩み通されたという事を。それゆえに、彼らはキリスト・イエスの僕と言ったのです。
アーメン!そこで私は今日、ルカによる福音書を開いてお話を続けたいと思います。


ルカによる福音書7章31~35節 
イエス様は神様であられたのに人間の姿を持って私はあなた方を愛していると言われたのにもかかわらず、彼らはイエスを無視した。
すなわち、弔いの歌を歌ったのに、泣いてくれなかった。笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。
私はあなたに愛を与えたのに、あなたは愛を拒否した。

そして、それだけではなくて、むしろあなた方は私を、食をむさぼる者、貪欲な者、又、大酒を飲む者だ、又、取税人、罪人の仲間、その当時捨てられた様な人達、誰もかえりみない様な人種、そういう人達と、イエス様はいつも一緒だったのです。
だからイエス様は、完全に罪人の仲間と言われたのです。
イエス様は、この様に言われていたけれども、御自分の立場を固守しようとは思わなかったのです。
 皆さん良く考えてみて下さい。
あなたが、この世の中で今与えられている、立場や地位、そういう一定の何か持っているものを、さげすまれたり、否定される様な事があったら、あなたは自分自身を否定されたと言う風に受け止めませんか?イエス様は、罪人の仲間だと言われようが、貪欲な者だと言われようが、全然気になさらなかったのです。
どうしてかと言うと、彼らを愛するということが、彼の目的であったからです。自分が神でなくて、そして罪人だと言われたとしても、イエス様は全く意に介さなかった、動じなかった、むしろ彼らを愛されたのです。
こういう捉え方をされる方が、あなたの信じている神です。
だから私達もその様な考え方を持つべきです。
アーメン!皆さん、私達は、その立場を超えて愛して下さる方の愛を知ったということを、覚えたいですね。

 ルカによる福音書7章36~39節 

「あるパリサイ人がイエスに、食事を共にしたいと申し出たので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。
するとそのとき、その町で罪の女であったものが、パリサイ人の家で食卓に着いておられることを聞いて、香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。

イエスを招いたパリサイ人がそれを見て、心の中で言った、『もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから』。」 
イエス様は、この女の立場が売春婦であろうが、罪の女であろうが、汚れた女であろうが、世界中の人から非難される様な事をして来た女であっても、イエス・キリストに対して本当に自分の心を注ぎ出す者に対しては、心から受け入れて、この女を許されたのです。この女は許されて後にイエスを信じた。

私達は自分の立場や、そういうもので生きることを止めなければなりません。
その様なものを固守しようと思う様なクリスチャン生活を送ることの無い様にしていただきたい。何故なら私達の主は、立場を超えて私を愛して下さったからです。
イエス様は、あなたを愛して下さったのです。今も愛して下さっています。
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ピリピ人への手紙2章1~5節 だからイエス様はクリスチャンである私達に、キリストと同じ思いを持ちなさい、そうおっしゃっています。イエス様は己を捨てて、他人のことばかりに、心を注ぎ出された。
その人生が最高に素晴らしい人生だと神様は評価なさいます。
 今は機械的な時代です。心なんて無視された時代です。
今は心が死んでいる時代です。どんどんと人間は機械的になって行きます。
そして全く人間らしさがなくなって行きます。その時代にあって、教会で一番重視されなければならない考えは、己の為に生きるのではなくて、他人の事をどれだけ思えるかという生き方をすることです。この世は立場で、肩書きで生きています。

 私達は、イエス様の愛という本音で生きて行きましょう。
立場を超えた愛、主は神であることを固守すべきこととは思わず、かえって己をむなしうして人間の姿になられた。
それだけではない、十字架の死に至るまで、従順であられた。
最高にさげすまれたのです。人があなたをどの様に評価しても、イエス様はあなたを愛しておられます。
私達も人を愛して行く人生を送りましょう。

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