2004年10月1日金曜日

キリストにお会いしてから(まばたきの詩人、水野源三さんの詩より)


10月の礼拝メッセージ:久松 政一 牧師

         (クライストチャーチ主任長老)




 ヨハネによる福音書3章16節 「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、 永遠の命を得るためである。」 

これは神様からの私達に対する最高のメッセージです。
なんと神様は、素晴らしい御言葉を語って下さったのでしょうか。 
本当に主に感謝をしたいと思いますね。私達は今日この御言葉を通して、本当に神様の御愛を知りたいと思います。 

 まばたきの詩人と言われた水野源三さんのことを、皆さんご存知でしょうか?
彼は、昭和21年(1946年)、 小学校四年生の夏、赤痢のため高熱が続き、脳が冒され、脳性小児麻痺となりました。
その結果、手足が自由に動かなくなり、 ものも言えなくなってしまい、見ることと、聞くこと意外は何も出来なくなってしまいました。
この5年後、キリストを信じ、 聖書通信講座も受けられました。
彼の意思表示は「あいうえお」の五十音図を壁に掛け、お母さんがその字を順次、指差してゆき、 自分の望む字まで来た時、目で合図するという方法でした。
一字一字を拾ってゆくという方法ゆえ、一つの詩を完成するのに どんなに忍耐と時間がかかったことでしょう。
 それでは、彼の詩を通して、イエス様の素晴らしさを、味わってみて下さい。

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① 救いの御子の降誕を、一度も高らかに、
       クリスマスを喜び、賛美歌を歌ったことがない。
一度も声を出して、クリスマスを 祝うあいさつをしたことがない。
一度もカードに、メリークリスマスと書いたことがない。

だけど、だけど、雪と風が たたく部屋で、心の中で歌い、
   自分自身に挨拶をし、
     まぶたの裏に書き、救いの御子の誕生を、御神に感謝し、喜び祝う。 


② あんなにも主イエスが、あんなにも主イエスが、
   あんなにも、私達の罪のために、涙を流して悲しんでおられるのに、
       罪を 悲しまなくてもよいだろうか。
         罪を悲しまなくても、よいだろうか。

  主イエスがあんなにも、主イエスがあんなにも、
     私達を 愛するために、血潮を流して苦しんでおられるのに、
        悔い改めなくてもよいだろうか。
          悔い改めなくてもよいだろうか。 

  主イエスがあんなにも、主イエスがあんなにも、
    私たちを救うために、昨日も今日も、招いておられるのに、
      みもとへ行かなくても よいだろうか。
         みもとへ行かなくてもよいだろうか。 



③ 私がいる、「ナザレのイエスを十字架に架けよ!」と、要求した人。
       許可した人。執行した人。それらの中に、私がいる。 


④ 心は不思議な所。
   心は不思議な所。信じるべきを疑い、
       愛すべきを憎み、望むべきを落胆し、
         喜ぶべきを悲しみ、 心は不思議な所。

   いったん主の御手に触れるならば、
  見たり、聞いたり、触れたりしなくても、
         信じ、愛し、望み、喜ぶことが出来る。


⑤ キリストにお会いしてから、
      戸をかたくしめきっていた、部屋に入って来られた。
   キリストにお会いしてから、キリストに お会いしてから、
         その両手と脇腹にきずあとがいたいたしい。
   キリストにお会いしてから、
             私の心が変わった。
     信じないものに ならずに、信じなさいと言われた。
   キリストにお会いしてから、私の心が変わった。お会いしてから…。


+   +   +




彼はこの詩を通して、日本中の方々に、クリスチャンがどんなに素晴らしいか、イエス様の愛がどんなに素晴らしいかを 語っていますよね。
ものも言えない、歩くことも出来ない。
表現力といえば目だけ。しかもその表情も、脳性小児麻痺だから、 豊かな表情もあろうはずがない。そんな中で彼の内側だけが、イエス様の救いによって、どんなに喜び変えられているか。 
この詩を通して私達は知ることが出来るのではないでしょうか。 

 主の十字架の深さ、あなたはそれを、どれだけ受け止めていますか?
神様は今日、そうあなたに語ってらっしゃいます。 
イエス様の愛は、あなたが思っているよりも、もっとすごいものですよ。
あなたをもっと変えるものですよ。
どうですか、 私の愛にもっと浸りませんか?もっと私に近付きませんか?
もっと私の言葉に耳を傾けませんか?そうするならもっとあなたは、 高い喜びにあふれた者に変えられることが出来ますよ!と、言ってらっしゃいます。どうですか?

 
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“戸をかたくしめきっていた部屋に入って来られた”
 誰が来ても心を開きたくない、誰も自分のことをわかってくれない、絶対信じないと思っていたのでしょうね。
その人と同じ 立場にならない限りは本当の意味で、そのh地の気持ちや思いはわからない。
でもイエス様が、私のために十字架に架かって下さった。 
そのことを知った時に彼の戸が開いた。アーメン!神様の愛が、彼の中に入ってきたのです。
神様の愛は人を完全に変える。 
私達はそのことをもっと自分自身知らなければなりません。
今日神様があなたに、「どんなものよりも愛しているよ。」と、 語ってらっしゃいます。 

“見えないお方に出会った時、見えない心が変わった!”
 私達の幸せというものは、外側にどんなに素晴らしいものが与えられても、真に幸せと言えるものはないのです。
人間ほど、 あきやすいものはない。これをもらったから、これでもう、何時も充実しているというようなものなど、この世には一つもない。 
私達の内側に見えないけれども生きておられる神様の愛が流れ込んで来る時、その時のみ、私達は変えられる。聖書は。
 そう告げています。何と素晴らしい愛でしょうか。
皆さん、この愛を私達が本当にゆだねて受け入れる時、私達の色々な思いわずらい、 悲しみや問題は、消え去ります。

 
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ヨハネによる福音書3章16節
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、 永遠の命を得るためである。」 

 これはイエス様がおっしゃったお言葉です。この神は、私達を創られた創造主なる神です。この神は、かけがいのないひとり子を 賜った(与えてくださった)ぐらい、この世を(あなたを)愛して下さった(十字架に架かって下さった)。という意味です。
 イエス様の弟子であった、シモン・ペテロが、
ヨハネの福音書6章68節で、
「主よ、私は誰の所へ行きましょう。私はどこへも行きませんイエス様。なぜならあなたが、永遠の命をお持ちである方ですから。」 

と、彼は言っています。この永遠の命を私達に与えるために、イエス様は来て下さった。
逆に言うなら、永遠の滅び、死があるわけです。
 私達は死で終りででないということを覚えて下さいね。
永遠の命は神様の御手の中で、永遠を過ごすのです。
霊は死なないのです。
聖書は、見えないものは永遠だと言っています。
私達の霊も、見えないのです。そしてそれは永遠に生き続けるものです。 
”どこで?!”これが皆さん、私達にとっては本当一番重要なことですよ。
イエス様がこの地上に来て、身代わりの死をとげて下さったのは 何のためか?あなたがイエスを信じて、永遠の命を得るためです。

これが聖書の本当の目的であり神様からの私達に対するメッセージです。 
このままでは絶対、神様の国へはいけない、汚くみにくい私達人間が、本当に素晴らしい方、イエス様を信じる時に変えられるのです。 
私達を変えて下さるお方に、信頼しましょう。 
”キリストにお会いしてから、私の心が変わった”、 「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」 と言われたイエス様。私達にただこのことだけを求めておられるお方です。

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今日この水野さんの救いの証である詩を通して、イエス様を私達が信じることによって変えて下さる。
そして、 その一番大切なことは永遠の命を下さるということです。
これは、どこに行ってもない命です。
誰も買うことが出来ません。
 誰もこの御言葉を信じないで、これを得ることは出来ません。
他宗教では絶対に得られない。
なぜなら他宗教の根源は真の 創造主ではないからですよ。
創造主だけがこの命をお持ちです。
そして、ひとり子を私達に賜ったほどに、あなたにこの命を 与えたいと願って、ご自身が身代わりの死をとげて下さった。
この崇高な御教えをあなたが信じることによってのみ与えられる この永遠の命を私達は今いただいているのですから、今日神の愛を深く感じましょう。
そして私達はこの愛に生きましょう。 そしてこの水野さんの様に本当に私達の心をイエス様にゆだねましょう。


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