2005年6月5日日曜日

十 字 架


6月の礼拝メッセージ 

メッセンジャー:久松 政一 牧師 

(クライストチャーチ主任長老)

私達の信仰生活は、十字架で始まって十字架で終わります。けれども私達は絶対に、その十字架を越えることはありません。 十字架がいつも基本であり、そしてその深さを追求することが、信仰生活です。それゆえに私達は、 その素晴らしさを知らないで、新しい領域に入っても、私達の祝福はないということです。 いつも十字架の祝福に我々はあずかりたいと思います。
 
まずヨハネによる福音書の3章14節に十字架の言葉が書かれています。 読んで見ましょう。 

「そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。」 

イエス様が、このようにはっきりと御自身が十字架に架かることを、旧約聖書の一つの事件を通して語られました。 イエス様はこの十字架を通して何を語っておられるのか? 

15節「それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである。」 
16節「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、 永遠の命を得るためである。 

 これが目的です。十字架は、永遠の命を得させます。
私達はあのアダム以来、 罪を犯して神様から遠く離れた存在になったことを聖書は告げています。「善悪を知る木の実を取って食べてはいけない。 取って食べたらきっと死ぬ。」=神様と断絶するという意味です。神様と交わりが途絶えて、神様と交流が出来ない。 それ故に人は、創られた目的を逸脱して、彼らは罪人という名前の元にこの世界をつくり上げて行ったのであります。 

 その結果皆さんも御存知のように、この世界は今、豊かさと貧困の中で、又、争いと憎しみの中で、 教育がどんなに進んでも、むしろもっと醜い罪が、現われて来るような世界を、私達は現実に見ているわけです。 そして悲しいことに、罪の結果、最後に人は、死を通して終りを告げる。これは神との交わりが断たれた罪人の姿であります。 

 人は一度死ぬことと、死んだ後に全ての者が、神様の前に裁かれなくてはならないことが定まっている。 と聖書は告げているのです。その様な私達を愛して、もう一度私達に、神様との交わりの回復を得させて下さった、 それが永遠の命であります。永遠の命をいただくということは、神様の命をいただくということ。 すなわち霊がもう一度よみがえって、私達は神とのよい交わりをすることが出来る関係になったということです。 十字架それは神との回復です。

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「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。 また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか。」
(ヨハネによる福音書11章25節、26節)
 

 アーメン!神との交わりはとこしえです。そしてイエス様は、もう一つの観点から、
ヨハネによる福音書3章3節
「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
 

と、おっしゃいました。
神様は神様との交わりを通して、私達が生まれ変わることが出来る。 回復されることが出来るということを語ってらっしゃるのです。

聖書の中に、 「ひとかたまりのパンがあって、そして家庭が幸せなのは、ものすごい豪華な家に住んで、争いのある家に勝る。」と、 書いてありますよね。皆さん一番大切なのは、家族の回復ですよ。神様との断絶が回復され、 本当にこの生まれ変わることの出来る、素晴らしい交流が回復されれば、私達は祝福されるのです。 

ですから1番目、永遠の命を得るということは、神との交わりの回復です。これに勝るものはないということです。
2番目、生まれ変わるということ、これは私達にとっては、絶対に出来ないことです。 私達の中身が生まれ変わらなければ、そんなことは出来ないことですよ。 けれどもイエス様は、新しく生まれ変わることが出来る様にして下さったのです。それが十字架です。 イエスキリストの十字架を通して私達は全く新しい者として、生まれ変わることが出来たのです。 人生やり直すことが出来るわけであります。何と素晴らしいことでしょうか。

 
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エペソ人への手紙1章7節
「わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、 罪過のゆるしを受けたのである。」
 

血によるあがない=十字架です。血によってあなたを救って下さったのです。十字架によって、あなたの罪を許して下さったのです。 

ピリピ人への手紙2章6~8節
「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、 おのれをむなしうして、僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、 死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」
 

アーメン!まさに十字架です。呪われるべきは、あなたであり、私でした。イエス様は、十字架と無関係でした。 にもかかわらず、イエス様は十字架の死に至るまで従順に歩まれました。
何のために? 

12節~18節「わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、 わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。 あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、 それは神のよしとされるところだからである。すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。 それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲がった邪悪な時代のただ中にあって、 傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。 このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことが無駄でなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる。 そして、たとい、あなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう。 あなたがた一同と共に喜ぼう。同じように、あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい。」 

喜びましょう!なぜか?私達は神の子とされたと書かれています。私達は罪を許されただけではなくて、神の子とされたのです。 この立場をイエス様は、十字架を通してあなたに与えて下さったのです。これを与えたいがためにイエス様は十字架をしのばれた。 
そうであるなら、イエス様の御心をあなたは今日しっかりと知るべきです。あなたは罪人じゃないし、 あなたは責められる所のもうない人です。どこの誰に対しても、私達は恐れることはもう無いのです。 あなたは神の子です。罪人じゃない。何でも神様聞いて下さいます。あなたに乏しいことなんか1つも無いのです。

 私達はこの世の人々に影響を与えてゆく者であって、世の中の人から影響を受けるような者ではもうないのです。 私達の内に、聖霊なる神がおられます。あなたはもうおどおどする必要はありません。 私達はこの十字架の意味の深さを本当に知りたいですね。 又、知るべきです。

 
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1、永遠の命。2、生まれ変わり。3、罪の許し。4、神の子。
これは全て、十字架から流れて来た特権です。本当のことです。真実です。誠です。この世が偽りです。 この世の考え方がうそです。この世ほど変わるものはありません。今の価値観と、昔の価値観は、ぜんぜんちがいます。 けれども永遠に変わらない価値観を持って生きる事の出来るものが1つだけあります。それが十字架です。

 今日私は皆さんに問います。十字架を信じて生きておられますか?十字架に生きていますか? 十字架があなたの生活の中に輝いていますか?そう、それが主の御心です。

あなたの家庭は回復されています。 あなたは全く生まれ変わったのです。あなたは完全な罪の許しをいただいているのです。あなたの立場は神の子です。 そしてその様に生きるようにと主は願っておられます。

だから、使徒行伝のクリスチャン達は、どんな立場の人であっても、 何にも恐れなかった。彼らは福音を伝えたのです。

イエスキリストの十字架を伝えたのです。私達もこれを伝えて参りましょう。

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