7月の礼拝メッセージ
メッセンジャー:久松 ひろ子 教師
自然体、飾りがない、とりつくろった所がない。これがクリスチャンの、基本的な根本精神であるということを、
ぜひ今日覚えていただきたいと思います。自然体であるということはどういうことか?神様の御言葉によると、
ピリピ人への手紙4章4~5節
「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。あなたがたの寛容を、 みんなの人に示しなさい。主は近い。」
自然体でリラックスしている姿この姿の最も良い現われは、喜んでいるということなのです。心からリラックスしていないと、 喜びは、湧いて来ないということなのです。
ローマ人への手紙14章17節
「神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。」
この喜びというのは聖霊から来る喜び、その喜びは絶える事がない。その喜びが内側から溢れていらっしゃいますか? この本当の喜びが、人々を引き付けるわけですね。その人の側に行ったら、何か知らないけどゆったりできる。 その人の側に行ったら、なぐさめられたり、励まされたり、元気の無い時でも、何か元気になって帰れるような気がする。 私達は聖霊に満たされた人の側で癒されるということを体験します。
そこで神様という方も、本来人間をこの様に自然体で生きるように創っておられたということを、 もう一度確認したいと思います。
創世記2章25節
「人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。」
神様が初めに創られた人間、アダムとエバは裸でした。私達は普通、裸っていうと、恥ずかしいなって思いますよね。 ところがこのエデンの園においては2人共裸でしたけど、全然恥ずかしいとは思わなかった。神様は私達に自然体の姿の中で、 本当は喜び楽しめる様に創っておられるのですね。
ピリピ人への手紙4章4~5節
「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。あなたがたの寛容を、 みんなの人に示しなさい。主は近い。」
自然体でリラックスしている姿この姿の最も良い現われは、喜んでいるということなのです。心からリラックスしていないと、 喜びは、湧いて来ないということなのです。
ローマ人への手紙14章17節
「神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。」
この喜びというのは聖霊から来る喜び、その喜びは絶える事がない。その喜びが内側から溢れていらっしゃいますか? この本当の喜びが、人々を引き付けるわけですね。その人の側に行ったら、何か知らないけどゆったりできる。 その人の側に行ったら、なぐさめられたり、励まされたり、元気の無い時でも、何か元気になって帰れるような気がする。 私達は聖霊に満たされた人の側で癒されるということを体験します。
そこで神様という方も、本来人間をこの様に自然体で生きるように創っておられたということを、 もう一度確認したいと思います。
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創世記2章25節
「人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。」
神様が初めに創られた人間、アダムとエバは裸でした。私達は普通、裸っていうと、恥ずかしいなって思いますよね。 ところがこのエデンの園においては2人共裸でしたけど、全然恥ずかしいとは思わなかった。神様は私達に自然体の姿の中で、 本当は喜び楽しめる様に創っておられるのですね。
神様の1つの命令がありましたね。それは、
「善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べるときっと死ぬ。」この絶対的命令に従っている限り、
すなわち私達がその神の心と一致して1つになっている、その時は、私達はリラックスして、平和で、喜べて、
自然体でいられたということなのです。これはとっても大切なことで、この神の命令に従わなくなった時から、
この時から自分はもうだめだ、みじめだという裸を見たわけなのですね。
その時人間のした方法は何かというと、
自分を隠す、包み隠す、覆うということを始めました。覆うということは、自然体でありません。
私達は締め付けられたくない、覆いを欲しない、だけど自分の中身がもうだめだということがわかったので、
何らかの方法で自分を良く見せたい、人よりも少しでも良く見られたい。私達は何も、本当は隠す必要もない、
飾る必要もない、神様の前に出たら皆裸、同じっていうことなのに、私達は自分を隠し通そうとする。
こういう人間になってしまったということですね。
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サムエル記下6章12~15節 でダビデは熱狂的に、喜びの叫びと、角笛の音をもって、神の箱をかき上った。そしてダビデ自身も亜麻布のエポデ、 これは当時の祭司が着る、白い麻布の薄い服でした。それで本当に、神様の前に喜び踊りながら箱を担いだ。
祭司が5歩進むたび、犠牲を捧げながら上ってきた。
このダビデがとった方法というのは、神様を喜ばせたのです。 ダビデはその当時の王様でした。そのダビデが王の服を脱ぎ捨てて、たった一枚の薄っぺらい祭司の服を着て、 そして民衆にまぎれて自分が踊った。ここに彼の神様の前に、何も取り繕った所もない、裸の姿を見るわけですね。 なぜ私達がこんなにリラックスできるのか?
コリント人への第2の手紙5章18~21節
「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、 彼にあって神の義となるためなのである。」
ここに私達がリラックス出来る、安心出来る理由があります。私達は神の義とされたのです。 アダムとイブがこの善悪を知る木の実を取って食べない時、義とされていたと同じ平和、神との一致、和解、 神様と一つにされているということにおいて、義とされているという安心感があったのですね。
アダムとエバは神の恵みの元にあって、 「完全な愛は恐れを取り除く」とあるように、完全な愛に包まれていました。それと同じ様に、私達も今、 キリストにあって神の前に裸とされて、全部の罪を取り除いていただいて、私達の、心の中の罪、実際的な罪、一切の罪を、 イエス様の十字架の血潮が清めて下さったので、何の恐れも無くなった。神の義として下さった。だからリラックスできる。
だれが何と言おうと、私はもう神の義よ!神の子よ!これが神の義とされた者の立場であって、特権なのですよ。 だから私達は何も頑張らなくていい。私達は何の責任ももう求められなくなった。責められることもない者となった。
このダビデがとった方法というのは、神様を喜ばせたのです。 ダビデはその当時の王様でした。そのダビデが王の服を脱ぎ捨てて、たった一枚の薄っぺらい祭司の服を着て、 そして民衆にまぎれて自分が踊った。ここに彼の神様の前に、何も取り繕った所もない、裸の姿を見るわけですね。 なぜ私達がこんなにリラックスできるのか?
コリント人への第2の手紙5章18~21節
「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、 彼にあって神の義となるためなのである。」
ここに私達がリラックス出来る、安心出来る理由があります。私達は神の義とされたのです。 アダムとイブがこの善悪を知る木の実を取って食べない時、義とされていたと同じ平和、神との一致、和解、 神様と一つにされているということにおいて、義とされているという安心感があったのですね。
アダムとエバは神の恵みの元にあって、 「完全な愛は恐れを取り除く」とあるように、完全な愛に包まれていました。それと同じ様に、私達も今、 キリストにあって神の前に裸とされて、全部の罪を取り除いていただいて、私達の、心の中の罪、実際的な罪、一切の罪を、 イエス様の十字架の血潮が清めて下さったので、何の恐れも無くなった。神の義として下さった。だからリラックスできる。
だれが何と言おうと、私はもう神の義よ!神の子よ!これが神の義とされた者の立場であって、特権なのですよ。 だから私達は何も頑張らなくていい。私達は何の責任ももう求められなくなった。責められることもない者となった。
でもほんのちょっと神様があなたに要求しておられることは「自発的にやってくれない」かっていうことです。
「あなたも許してもらったのだから、他の人にも『あなたも許してもらいましょう!』ってね。」
これをやってくれないかと言われます。私達を責めたりしておられない、このことを神は願っておられるということです。
私達には、この和解の福音が、ゆだねられているということですね。
コリント人への第1の手紙9章19~23節
「わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。 ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、 律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、 キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。 弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。 なんとかして幾人かを救うためである。福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。」
これが私達の福音を伝える時の、根本精神を表わしています。弱い人には、弱い人のように。私もこんな弱い所がありましたよ。
これは、その人のニード・人格、そういうものに合わせた、そういう伝道をして行く、 いえ伝道という意識さえなかった方がいいのです、本当は。ただキリストにあって、交わって行くということですね。 この時にあなたは自然体の言葉、相手にとって最もリラクス出来る状況を、あなたもそこで創るという、 これが大切だということです。
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その時神様が願っていらっしゃる、気を付けていただきたい点というものを、どういうふうにパウロが言っているか、
見てみましょう。
コリント人への第1の手紙9章19~23節
「わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。 ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、 律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、 キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。 弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。 なんとかして幾人かを救うためである。福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。」
これが私達の福音を伝える時の、根本精神を表わしています。弱い人には、弱い人のように。私もこんな弱い所がありましたよ。
これは、その人のニード・人格、そういうものに合わせた、そういう伝道をして行く、 いえ伝道という意識さえなかった方がいいのです、本当は。ただキリストにあって、交わって行くということですね。 この時にあなたは自然体の言葉、相手にとって最もリラクス出来る状況を、あなたもそこで創るという、 これが大切だということです。
人間というのは私を認めてくれている状況の中でなければ、心を開きません。
神様が私達を愛して下さった様に、相手を自分の考えで狭めないで、そのまま受け入れる。これが神様の最高の願いであります。
今この世の終りの時代には、神様は、「ダビデの幕屋を建てなおす。」と、おっしゃっています。それが今の礼拝です。
これは、神様を信じている人と、信じていない人との壁を取り除くことなのです。ダビデが王の服を脱いだように、
私達も心が大事です。自然体、自然に発する権威、信頼というものが大切であって、こういう教会、これが、
神様が願っていらっしゃる、真の教会だということです。ですから私達は自然体でお付き合いしましょう。
あなたが自然体でおる時、あなたを通して、人々はあなたに引き付けられ、吸い寄せられて来ると信じます。
そして、神様の栄光が現わされます。
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