2009年12月5日土曜日

誇り・プライドからの開放 

  

  2009.12.5(日)主日礼拝より

  メッセンジャー:久松政一牧師
  (クライストチャーチ主任長老)



   誇り・プライドからの解放。これは本当に難しい。しかしダビデという人物は、不思議ですね。神様に信頼すると、これが無 くなるのです。誰に信頼しているかが一番問題ですね。私たちは今日、ダビデの心はあなたの心であるべきです。このプライドという言葉は良く使いますけれ ど、これは自尊心という意味ですね。自分を尊ぶ心。自分を尊ぶと、相手を尊べないのです。これがプライドです。で、私たちはこの誇り、または、プライドと いうこの心から、解放されなければならない。そうでなければ皆、不幸になるのです。

今、日本では、教育熱心ですね。特にこういう、今のような厳しい時代に は、両親は必ず「勉強しなさい!」でもその動機がものすごい悪い。何のために勉強するのか?その勉強したものが自分に身に付いたら、その能力、知識は自分 のために使うのか?それとも人々のために用いるために使うのか?これによって、自尊心を持っている人と、それを全く持っていない人との違いが、明確に現わ れる訳ですね。


例えば坂本龍馬、彼の書いた手紙。明治維新の中でその土台となった、基礎となった、そういった制度の中に、彼は自分の名前を書いていなかっ たことを、皆さんテレビで見られた人いますよね。彼は自分が何かの職に付きたい、そのために日本を変えたいのだとは願っていなかったみたいですよ。彼は自 分の仕事を終えたら、家族と一緒に世界旅行をして、見聞を広め、その知識を持って、日本のためにまた役立てたいと願っていた様だと思います。
彼は固執しな かった。

自分が大政奉還という驚くべき変革をなしたにもかかわらず、彼の目的はそこではなかった。彼の今ある書籍からは、彼にはあまりプライド、誇りとい うものは無かったように思いますね。ところがやはり、薩摩藩士となると、西郷隆盛は素晴らしいけれども、結局そういう戦争の中で死んでいくという悲しい結 末を迎えましたね。一つの藩に固執したら、どうしても戦いがありますね。

私たちも神様の国を愛するのです。これが私たちの生き様です。そうでありたいですね。そのように生きていきたいと思いますね。その意味でダビデという人物は、本当にプライドが無かったのですかね。では聖書を見ましょう。


  サムエル記下24章1~9節 
これはダビ デがイスラエルの王として、もう国が確立してきた時代のことです。
もう敵もいなくなってきました。
ダビデが近隣の国を治めるくらいの力を持った王となって いた時ですね。

 その時に、これは本当に不思議なことですけれども、
「主は再びイスラエルに向って怒りを発し、ダビデを感動して、」
その内容は私には分から ないのですけれども、なぜ神様が怒りを発せられたのか?そしてその怒りの矛先をダビデに向けて、ダビデの心の中に、民を数えるようにという思いを入れたの です。神様がしたのです。ダビデの心ではなかったのです。これは本当に不思議です。

 だから神様からその思いがやってきたので、ダビデは軍の長ヨアブに言い ました。
「全軍を数えよ!戦う勇士達が、イスラエルの国に何人いるか数えて来い。」
その時にヨアブは、
「王様、あなたの国がもっと広がりますように、そし てあなたが栄光を受けられますように。」
と、お世辞を言った後に、軍の長ヨアブはこう言いました。
「でも、ダビデ王よ、そんなことをする必要があるのです か?もう充分強いじゃないですか。人数を数えなくてもいいんじゃないですか。」
と、そう言いました。でも、王の力が勝った。
「数えよ!」
そして9ヶ月と 20日かかって数えたと書いていますね。南北のイスラエルの国の領土、すなわちダンからべエルシバ迄を行き巡って数えてこさせたら、80万人の軍隊があっ た。これは当然誇りです。自惚れです。でもそれを入れたのは、神様です。


  サムエル記下24章10~14節 
ここ に二つの大きな、考えるべきことがあります。一つは、数を数えた後、心に責められたと書いてありますね。この言葉の意味は、心がダビデを打った、という意 味だそうです。ダビデの心がこの考え方を否定した、という意味でしょう。我にかえった、ともいうことができるかも知れません。

 ダビデには初めから数を数え る思いは無かったのです。でも神様がそうさせた。それによってそれを実行した。けれども実行した後すぐに、彼は自らの心が責められた。彼の本当の願いでは なかった。彼には初めからプライドが無かったのです。その意味です、心が彼を打ったという意味は。ダビデには誇りというものが初めから無かった。

 ダビデは 歌っています。「主は私の羊飼い。」
また、王となった時でも、
「私を何者と思われるのですか神様?私はただの、いっかいの羊飼いでしたのに、あなたがこの 様な王としての立場まで下さいました。」

 いつも彼はあらゆる権威や、地位や、名誉を与えて下さった方が誰かということを知っていた。自分じゃない。自分の 力によってなったことは一度もないと考えていたのです彼は。我々キリスト者も、そうあるべきです。あなたが知識が豊富で、人々に素晴らしく教えることがで きるのなら、あなたは誇ってはならない。それは、神様があなたに与えたに過ぎないものです。

 あなたから出たものじゃない。そういう意味です。だからダビデ はダビデの心が自分を打ったのです。私たちも何か事を行った時、あなたは一番気を付けなければならない。失敗した時は最高です。感謝しなさい。ああ私は どっちみちこういう者だった。この様な私を、神様は愛して下さっている。ありがたいなと思えます。

 成功した時は気を付けなさい。聖書はいつもそう書いている。だから成功した時は何も無いのです。その成功は、神が私に下さったものであって、神様がその主権を握っておられるのです。プライドは、私たちの中に あってはいけないのです。自尊心などというものが、人を傷付けるのです。自分を偉いと思っているから、自分は能力があると思っているから。

 でも一番素晴ら しいのは、能力じゃなくて、心なのです。世の中は、全くこの教えを否定します。真実に歩いたらバカを見る。だから正直者はバカを見る。バカを見ることが素晴らしいのです。イエス様の生涯は、全部バカです。何で神様が十字架みたいなものに架からなければならないの?何であなたの罪のために、イエス様が身代わ りにならなければならないの?バカですよ。

 イエス様にはプライドが無かった。私は父の言われることしかしない。自分の願う通りはしない。それは自尊心が無 かったからです。自信というものは必要ですよ。でもプライドはちがう領域です。それは自惚れです。


 
サムエル記下24章15~17節
 執りなしていますね。そしていつもダビデはこのように、神様がテストされることも受けたのです。多くのクリスチャン達は、このテストをされる時、いつも言 うのです。
「私は何の悪い事もしていないのに、神様どうしてこんな悲しい事を起こすのですか?何で私だけこんな辛い目に合うのですか?」
と、皆言うのです。神様は、必要だから与えるのです。あなたは神様ですか?違うでしょ。だったら神様が下さることは、本当はあなたにとって一番良いことなのですけど、分 かってもらえないですか?と、神様はおっしゃいます。

 子供だってそうでしょ。子供に教えるのは大変ですよ。ダメですよ!でもそれ欲しい。いや、それは危な い危険なものだからだめだ!その押し問答は、ずっと続きますよ。でも最終的に親の権限によって、取るでしょ、それを。なぜ?子供を愛しているからです。子供が理解しようが理解しまいが、やるでしょ。後になって分かるでしょ。

 私たちの人生もね、私も本当に、自分の自我が自分を苦しめてきたのだなということ が、本当に良く分かる年代になってきました。いつも今まで、多くのクリスチャンと同じように、私も、あの人がいけないからとか。ああ、こんな事が起こった のはあのせいだとか。いつも他人事のように。あなたはいかがですか?変わらなければいけないですよ。
       
     ダビデの心はあなたの心です



 詩篇131篇1節  

 ダビデが歌っています。すごいことは皆、神様がなさる事です。だから私の心が自惚れないで、私が偉そうにしないように、神様いつもそういうことは、私は関与しません。すなわち神が与えられた権威、ダビデにとっては王という立場です。これを己のために使いません。

 これは私が持っている、実力で勝ち取った立場ではありません。主よあなたがなさった事です。良く知っています。ですからこれに関して、私は自分を現しません。

 でも多くの人はどうですか?もう会社の社 長みたいになったら、どうですかね。自分で勝ち取った!弱いくせに本当は。ちょっと病気になったらすぐ死ぬくせに。こんな弱い人間が偉そうにしている姿 は,神様の目から見たら、こっけいに見えますよね。イエス様は驚くべき御方なのに、プライドを持っていなかった。だから十字架の上からでも、「彼らを許し たまえ」と、祈られた。自分を槍で突いているローマ軍に対して、彼らを許したまえと祈られた。プライドなんか一つも無いです。

その御方を私たちは信じているのですよ

 弘法大師、彼は創られた者に過ぎません。イエスは創造主です。この方が、彼らを創ったのです。その御方の本質は、自尊心がない。愛するためな ら、己を捨てなさる御方です。この考え方を我々は持つべきですよ。

 だからクリスチャンはね、あまり権利ばかり主張して、義務を果たさない様な、愚かな人に なってはいけないのです。義務を果たしても、「ただのしもべに過ぎません。」と、言いなさいとイエスはおっしゃっています。だから、やったからといって、 何かお返しくれなかったら腹が立つのだったら、プライドがある訳でしょ。自尊心がある訳でしょ。

 それがあなたを不幸にしている。そしてあなたの横にいる人 達に、たとえば子供、夫、妻、そういう人達に、皆あなたはプライドという恐ろしいものを流し出している。捨てなければなりません。いらないです。

 
 また逆に、サウルの話をもうちょっとしなければならないですね。見てみま しょう。ダビデの前の王様です。彼はダビデとはちがって、違う心を持っていました。プライドが高かった。本当は彼は、誇り高い男だった。誇りがあった。だ から神様に言われて、敵を打ち破った時、サウルは意気揚々と帰って来た。でも、彼にとっては「やったー!」という感じなのです。全然違うのです神様の考え とは。その時彼はどんな風な行動をとったか。

 サムエル記上15章10~12節
「その時、主の言葉がサムエルに臨んだ、
わたしはサウルを王としたことを悔 いる。彼がそむいて、わたしに従わず、わたしの言葉を行わなかったからである』。
サムエルは怒って、夜通し、主に呼ばわった。そして朝サウルに会うため、 早く起きたが、サムエルに告げる人があった、『サウルはカルメルにきて、自分のために戦勝記念碑を建て、身をかえして進み、ギルガルへ下って行きまし た』。」

 やったー、大勝利だー!と、そしてカルメル山に行って、「俺のために戦勝記念碑を建てよ!」イエス様は、イエス様の像を作れとは、ひとつもおっ しゃらなかった。聖書の中には、像を作ってはならないと書かれている。私たちの神様は、見える形の方ではない。もう色んな像が一杯立っています。プライド です。どれだけこの人は、すごいことをしたか、後世に残したか。イエス様は一つも残していない。御自分の服も、墓も。イエス様が残されたのは言葉です。で もこの言葉によって、私たちは変えられるのです。サウルは戦勝記念碑を立てるという、プライドの高い男だったということが、この所ではっきり分かりますね。

 サムエル記上15章24~25節
 ここにもサウルは、一応ごめんなさいと 言っているのですけれども、これは偽りのごめんなさいでした。なぜごめんなさいと言ったか。民の手前、自分が王としての品位を保ちたいからでした。

サムエ ル記上15章30節
 本当は神様の言われた戦いに正しく従わなかったにもかかわらず、なお彼は王としての立場にしがみ付きたかった。だから、私は罪を犯し ましたけれども、そんなことよりも私を尊んで、民の大勢いる前で、私があなたと一緒に礼拝する姿を見せて、権威を保たせて下さい。皆さん私たちはさげすまれたり、ひどい目に合ったら、プライドを持っていたら、ものすごい怒りがあるのです。でもイエス様はこん棒で叩かれたり、つばきを吐きかけられても、俺は 神様だぞ!という思いはなかった。
いかがですかあなたは?

 ガラテヤ人への手紙6章14節
「しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。」
 ですから、世の中が欲する所のプライド・誇りは、もう私自身死んでいるから、もう死んだものは影響を受けない。私たちの考え方がプライドに死んだなら、私たち はもうプライドに対して影響を受ける必要は無くなるのです。

だからボロくそに言われようが感謝。プライドが人を不幸に落とし入れていきます。家庭を崩壊さ せていきます。私たちの十字架は、権力と力と栄光と全ての支配を持っておられる御方が、地獄にまで下られたということですから、全く謙遜を持った御方だと いうことです。プライドは一つも無いということです。

 イエスは天の王の王でした。その方が黄泉にまで下ったのです。神様御自身がプライドが無い。その証拠 が十字架です。十字架は私たちの神様の証拠です。それを誇りとするということですから、私たちは人から何を言われても感謝。誇りとプライドが無くなる。これがどんなに幸いな家庭をつくり出すか。

 一生懸命してできたとしても、あなたがやったのではないというのが神様の考えです。力がある御方なのに、その力を 現さないで、全く違う方法で私たちを愛された。そんな生き様を、地上で見たことも無いのでしょ。だからイエス様を信じたのでしょ。だったらその御方のおっ しゃる通りに、私たちも生きるべきでしょ。

 だから今日の2番目は、本当にこれはあなたに突き付けられている神様のメッセージですよ。知識のある人や能力の ある人ほど危険なのです。私たちは十字架を誇りませんか。天の神様がこの地上に降りて来て下さったクリスマス、これが私たちの主です。ダビデはプライドか らの解放の素晴らしさを知っていました。ダビデはいっかいの羊飼いに過ぎなかった。その神との関係を生涯貫き通しました。自分が与えられた立場によって、 彼は変わらなかった。立場が上がれば上がるほど、低くなれとイエス様はおっしゃった。それがイエス様の御教えです。

 イエス様の御生涯もその通りでした。私たちもそのように生きていきたいと思います。私ももっと、もっと、ダビデの心になりたいと思います。
 1番目・ダビデは権威に対する尊敬の心を持っていた。 
 2番目・彼の心に、誇り、プライドからの解放の心がいつもあった。
これが彼の人生において、成功させたのです。

 本当にそのように生きた人は、すごいなと皆 思うように必ずなるのです。あなたがその様な心で人と接して下さったら、この人は何であの人にあんなにひどい目に合っていながら、なぜあの人のことを憎むことがないのだろうかと、不思議に思うようになるのですよ。そうなって下さい。ダビデの心が私たちの心です。14ある中の今日は二つ目です。これは聞くだけではいけません。これはあなたの毎日の中で、実践しなければいけない生き様です。


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