2011年1月2日日曜日

福音に生きる

 礼拝メッセージ 
2011.1.2(日)主日礼拝より


 メッセンジャー:久松政一牧師



今日は合同礼拝で、岡山からも遠い所、兄弟姉妹たちが一緒にこの礼拝に参加しておられることを感謝します。一同に会してこのように、我々この倉敷主イエス・キリスト教会の兄弟姉妹が集まることは、本当に素晴らしいことですね。

 さあ、今日のタイトル「福音に生きる」とは、一つ目、私たちが今、使徒的改革で学んでいる、私たち自身がイエス様のように生きるということですね。内面 の変革です。

 私たちは今まで罪の世界に生きておりましたから、価値観がこの世の中の価値で生きておりました。けれどもそこから救い出された私たちが真に福音に生きるとは、私たち自身が、キリスト様が歩まれたように、すなわち彼が行われたように、彼が語られたように、私たちも歩むということです。
これは非常に私たちにとって、最終的な目標になります。

 
 もう一つ私たちは、今日もう一度確認の意味で語りたい。もう一つ福音に生きるとは、それはあなたがあなたの言葉を通して、多くの人々にイエス様を語るということです。一般に言う伝道する福音を伝えるということでありますが、このことがおろそかになっては、決してならな い。私たちは10名20名ぐらいの教会の時には、一人でも新しい人を導いて来たら、もうその人をピラニアのように食べつくそうと、もう皆がその人が救われ るようにと、一生懸命になりますね。

 けれどもだんだん人が増えて来ますと、もうこれだけいたら、別に私が福音を伝える必要はない。誰かがイエス様を伝えて いたら、少しづつ成長して行くだろう。というような他人まかせの安易な考えを、私たちは持ってしまいがちなのですね。

 その証拠に、昨年度は月報を見ていた だくとお分かりのように、倉敷と岡山を合わせまして、礼拝の平均人数は、年間で一名増えただけなのです。もちろん来た人全部が救われるということではあり ませんが、私たち一人一人が、この福音に生きるという姿勢が、安易に見られがちであることは、これは神様に対して申し訳ないことだと思います。今日は使徒行伝から見てみたいと思います。

 使徒行伝18章1~11節
 ここは何度も語られている所ですが、このテモテ とシラスがこのギリシャの一番上の方、これをマケドニア地方と言いますね。そこからやって来て、コリントに行った。ですから、ギリシャという国は、イタリ アと同じように長細い国なのです。上がマケドニアという地方です。そこにいたこのシラスとテモテが、このアテネにまでやって来て、そしてアテネからもう一 つ下の島、ですからギリシャの一番下ですね。そこがコリントと言われていた。
 このコリントでパウロは、福音を伝えた。私たちは、福音に生きるという大きな 一つの意味は、あなた自身が、あなたの口でイエス・キリスト様を伝えることです。これなくしては、私たちはイエス・キリストを表すことはできません。もちろん皆様はまだ、完成されたキリスト様の様な人格を持っているとは言いがたいですね。

 しかし、あなたがキリスト様の様な生き方をしたい。キリスト様の様な、愛と慈しみとまた、厳しい時には、厳しい正しさを現すことのできるような人格を整えて行く。そういう歩みを皆さんがお持ちの中で、私たちが絶対に忘れてはならないことは、絶えず福音を伝えるということです。 

 ですから今の時代においては、このパウロ先生のように、実際にイエス・キリスト様の素晴らしさ を、この御言葉を通して語るという所にまで行く事のできる人はそんなに多くいらっしゃらないと思います。

 けれども多くの、ここにおられる全ての人、誰一人例外ではありませんが、あなたを通してこの教会堂に、また、会社、職場で、
「イエス様は素晴らしい。教会は素晴らしいよ。イエス様って素晴らしいよ。私を こんなに救って下さいました。」
という証はできますよ。

 あなたがイエス様を信じて、どんなに幸いになったか。どんな価値観で生きているか。そういう証をすること、短くてもかまいません。私は本当はこういう心を持っていたのですけれども、教会に導かれて、私は今救われてこんな幸いを得ていますよ。あなたも一緒に行かないですか?今度こういう集いがあります。この場所にまで導くことのできる。また、証をして、その素晴らしさをちょっと伝える。これは誰でもできることですよ皆さん。これがなされていないということです。

 皆さん私たちは一つのことを求めたら、もう一つのことを忘れてしまうようではいけないです。福音に生きるとは、この両方。私たちの人格が整えられて行くと共に、イエス・キリスト様をお伝えするという、語るということを、あなたは決しておこたってはならない。

 毎日いろんな人と皆さんは今年も出会われると思います。それは神様があなたに対して語っておられる言葉です。
「黙っているな!」と。
あなたの領域でなければ会うことのできない人を、神様はあなたに会わせておられます。私は決してその人と会うことはできないでしょう。でも、あなたならその人と会う ことができるのです。

 あなたに責任を、神様はゆだねておられるのです。

間違わないで下さい、その人が救われるかどうかの責任を、あなたに要求はしていません。あなたがその人に対して証をするかどうかを、イエス様は要求していらっしゃる。「黙っているな!」語るということをなくして、私たちは福音を聞くこと ができないのです。イエス様のお話を聞く機会が、特に日本人にはないのです。

 今、この倉敷市だけで48万人の人口があります。その内でこの倉敷は、大体 150人、子供も入れた平均人数でありますけども、まあ子供たちを除いても、100名の人たちは中学生以上、小学生でも、福音は伝えることができます。これがなかったら、この教会は成長しませんよ。


 皆さん、私は内面的な福音に生きること、即ち使徒的改革は中心に語りますけれども、これを完成するまで待てとは、聖書は言ってないですよ。あなたの人格が変えられ続けて行く、この一般的に聖化と言われている、清められ続けて行くというその人生において、その途上で会う人々には語れと言ってらっしゃるのです。

 あなたがもしこれをされないのなら、あなたはイエス様に対して責任がありますよ。あなたの親族や、あなたの友人や、あなたと会う職場の人たちは、あなたしか会えないのです。他の人は他の人で、 その与えられた人たちがいるのです。

 平均人数が100人のこの倉敷だけの教会でまた、岡山で20名以上の方々、この方々が毎日色んな方々とお会いする中 で、365日の中で絶えずそのことを意識して、イエス様を証して下さるならば、必ず多くの方々が、イエス様の話を聞くことのできる機会が与えられるのです。それが大事です。機会を与えよと言っているのです。あなたが救えと言っているのではないのです。救うのは神様です

 でもこれをおろそかにしすぎる。私はそのように思います。
今年私たちはこの、
「あなたも行って同じようにしなさい。」
というこのテーマの御言葉に従って、今年は5年目、最後です。5年間計画で、この御言葉を継続して来ました。今年は最後の最終年です。仕上げなければなりません。

 この御言葉が実現して行くことを。あなたも行って語りなさい。神様はそう言っています。あなたを通してこの会堂に、何らかの形であなたの友人、知人、親族が来なければならない。その中から神は救う民を起こしなさいます。その人数が多ければ多い程、救われる人の確率も高くなる訳です。あなたがおろそかにすればするほど、福音は停滞するのです。

 私たちは今、家族のことに ついて沢山話をしています。でもね、人間的に自分の家族だけが、病気もなく、また、楽しい毎日を過ごし、金銭的にも問題なく、世の中でいう、幸せという、 そういう家庭を築きたいということを我々は語っているのではないですよ。勘違いしている家族がこの中にもまだまだおられます。大きな問題が起こらない、ま た、辛い事や、病気や、色んな出来事が起こらなかったら、神様に感謝します。それは私たちの本当の願いじゃないですよ。

 色んな事が家庭の中に起こっても、 家庭の中でイエス様を愛する心を持って、その価値観で、互いに許しあい、助け合っている姿、問題が起こっても、問題に負けないで、進んで行く姿勢が、その 中に見られるようにと言っているだけであって、私たちはそういう家族の一般的に言う幸せを、皆さんに与えたいと思っている訳じゃないです。

 むしろ困難や、 苦難が、あなたの家庭に起こるように願っています。なぜなら起こらなかったら、あなたはその時、どのように対処するか分からない。テストが無かったら、結果が出ない。辛い事や、苦しい事や、色んな事があっても、それを乗り越えて輝く力こそ、キリストがあなたに与えている聖霊の力ですよ。これによって私たちは祝福されて行く訳です。

 そのための福音を、今私たちは学んでいます。使徒的改革の中で、BTGで学びます。これからもこれは継続されて行く教えになって 行きますが、もう一つの福音を伝えるということに対して、皆さんが怠慢であってはならない。なぜならイエス様はあなたに要求しますよ、あなたが天に召され た時、私はあなたに何百何千人の人と顔を合わせたけれども、その機会があった時に、あなたは一人も連れて来ることをしなかったと、イエス様から言われたら、あなたはどうするのですか?

 本当の福音を伝える、一番重要な、最前線のことを、イエス・キリスト様は、救われた者全てに与えておられるのですよ。この責任を自覚しなければならない。あなたが友達と、楽しい交わりの時を与えられるために、色んな人と合わせて下さっている訳だけじゃない。

 ロー マ人への手紙10章14~17節 
  「しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。
「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」
と書いてあるとおりである。

しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。
イザヤは、
「主よ、だれがわた したちから聞いたことを信じましたか」
と言っている。したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。ここに二つの先程私が言った内容が含まれています。

 あなたがイエス様を信じているクリスチャンであるなら、必ずイエス様はあなたに要求します。
それは宣べ伝えることです。人にイエス様をお伝えするということです。お伝えするということと、お伝えした人が信じることとは別だと先程も言いましたように、それは別なので す。

イザヤ書52章7節 
これは先程のローマ人への手紙10章14~17節
の御言葉の一つ目です。それはこれです。
「よきおとずれを伝え、平和を告げ、よきおとずれを伝え、救いを告げ、シオンにむかって『あなたの神は王となられた』
と言う者の足は山の上にあって、なんと麗しいことだろう。」
 皆 さんの足が、イエス様をお伝えするための場所に行って、そしてその目的のその人に、あなたが行ったその行動によって、イエス様をお伝えする、証するという ことは、何とその人の足は麗しいことだろうと聖書は言っている。

 ですから神様の願いは、ここにいる全てのクリスチャンが、イエス様をお伝えする、語る、そのために時間を取り、犠牲し、動くということを神様はあなたに要求しています。ですから日曜日に礼拝に来るだけのクリスチャンは本当ではない。目的、責任を果たしていない部分があるということです。あなたは必ずあなたの近隣に会う人々に、その所に行ってあなたの足で、このことを語るべきです。それは何と麗 しい足だろう。

 逆に言えば、あなたがクリスチャンだとは言っても、行く場所が、いつも自分の楽しみの場所、自分がやりたい所へ行く、そういうことには、時間もお金もかけるけれども、イエス・キリストの福音を伝えるためには、一つもあなたの足が動いていないのなら、何と悲しい足だろう。そう言っています。今年はあなたはそれをするべきです。

 なぜならこの教会は、キリストの体だからです。責任の無い人は誰一人いません。あなたです。
神様が願っておられるのは、 これがその内容の一つです。私たちが実際に語るということですね。



 もう一つの御言葉、これが
イザヤ書53章1節
の言葉を引用しているのですね。
ローマ人への手紙10章14~17節の中に入っています。
イザヤ書53章1節 
「だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。」
 だから教会に新しい方が来られたからといって、皆信じるのではないと言っているのです。だれがわれわれの聞いたことを信じましたか?信じない人が多いです。 と、言っているのですよ。でも、100%信じなかった訳じゃない。信じる人を神様は、必ず用意しておられるのです。

 その確率は、私たちが神に求めるべきで はありません。私たちがするべきことは、この二つ目、信じる者と信じない者がはっきり分かれるということを、聖書は言っているのですよ。だから皆さん、私 たち信じる者が、いかに素晴らしい恵みをいただいているか。これは不思議と言っても過言ではありません。

 頭の賢い人が、理性でイエス・キリストを信じるとは限りません。頭があまり良くなくても、イエス様の救いをスッと受け入れることのできる人もいます。聖書の中で私がよく言う内容は、ずばぬけた賢さの人 は、イエス様を信じるのです。パウロ系の人です。東大に入るぐらいじゃないですよ、もう突出した、天才的な賢さです。そういう人はイエスを信じることができる。それからペテロが代表されるように、あんまり知性やそういうものはない。けれども、本当に心が貧しい人たち。そ
ういう人はイエスを信じることができる。

 一番最悪なのは、自分が賢いと思っている人たちです。この人たちは救われる確立がものすごく低いと、私はそう思っています。いずれにしましてもこれ は、皆信じることができたか?というと、そうじゃあないということを言っている訳です。

 ですから私たちの間違った点は、イエス様の所に連れて来て、信じさ せなかったらダメなんだとお思いならば、間違いです。皆それぞれの務めがちがいます、タラントがあります。無口な人、あなたは連れて来ることはできます。 あなたが一番最悪に悪いのは、黙っていることです。

 だから我々は、この使徒的改革の中でも、壮年の方々に対して、家庭でもっと妻に対して交わりましょうと か、そういうことを言うのも、性格的にあまりものを言わない、そういう性格の人も日本人は多いです。目的のある話のある時だけ話しをよくする。でも、大切 な福音を語るということにおいて、無口であっては許されないですよ。

皆さん、あなたの側にいる人たちが、あなたの責任範囲です。信じる信じないはその人の責任です。連れて来るあなたに、神様は責任を求めません。でもあなたが、麗しい足でないなら、神様はあなたに対して責任を求めますよ。

 あなた自身も誰かか ら聞いて、なにがしかの形でこの福音を聞く機会を与えられた訳でしょ。神様はあなたに求めますよ。今年、できる事をしなさい。
指導者も指導者としての仕事 をしているのです。



 皆さんも、与えられたことをできるものとして行っていただきたい。救われる救われないは、神様の領域です。もう一つこのことについて、御言葉があります。

ヨハネによる福音書12章35~43節 
「そこでイエスは彼らに言われた、『もうしばらくの間、光はあなたがたと一緒にここにある。光がある間に歩いて、 やみに追いつかれないようにしなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこへ行くのかわかっていない。光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい。』 イエスはこれらのことを話してから、そこを立ち去って、彼らから身をお隠しになった。このように多くのしるしを彼らの前でなさったが、彼らはイエスを信じ なかった。それは、預言者イザヤの次の言葉が成就するためである、『主よ、わたしたちの説くところを、だれが信じたでしょうか。また、主のみ腕はだれに示 されたでしょうか。』こういうわけで、彼らは信じることができなかった。イザヤはまた、こうも言った、『神は彼らの目をくらまし、心をかたくなになさっ た。それは、彼らが目で見ず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである。』イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであって、イエ スのことを語ったのである。しかし、役人たちの中にも、イエスを信じた者が多かったが、パリサイ人をはばかって、告白はしなかった。会堂から追い出される のを恐れていたのである。彼らは神のほまれよりも、人のほまれを好んだからである。」 

イザヤ5章1節にも
「だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。」
 だから信じる信じないは神様が決めるのです。言い換えれば、新しく来た人の責任です。どちらを選ぶかは。でもそこまで連れて来る責任はあなたです。教会堂に来て、イエス様の福音を聞いても、信じない人たちはいます。それは神様が彼らの心をかたくなにされたのです。神様がかたくなにされた理由は何か?
「それは 彼らが心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである。」
彼らが自分の考え方をしっかりと固執して、そういう者の心を神様は固くするのです。でも その人は自分で固くしていたと思っている。それは違うのです。神様が、信じさせないようにさせたのです。

 それは心が本当に、やわらかくないから。その人た ちの責任は、その人たち自身が最後に、滅びという永遠の代価を払わなければならない。イエス様の十字架の代価は、永遠の命を払って下さったのに、この世の 短い命の方を大切にし、この世の快楽や、この世の喜びだけを求めるような人たちは、心がものすごくかたくなになりますから、「キリストがきらい」その人は、終りです。本当に恐ろしい結果を、その人は刈り取ります。

 怖いね。神様は恐るべき方ですよ。許さないですよ。許すために十字架に架かって下さったのに、その許しを受け入れないのなら、その責任はその人自身です。だから私たち教会は、来た人が信じなくても、何にも心を痛める必要ないです。心痛いけどね 本当は。何で信じてくれなかったのかなって、心痛いけれども、我々の責任じゃない。

 皆さん神様の側の領域を、あなたは受け持ってはいけない。あなたの責任 じゃないのです。その人がかたくなだからです。滅びはその人が刈り取ったらいいのです。でも私たちの責任は、
「黙っているな、語り続けよ。」
と言っていま すね。コリントの教会で、パウロは1年と6ヶ月福音を伝えた。だからものすごい人が、パウロの話を聞いたのです。福音を聞いたのです。でも信じた人たち は、その何分の何がしかです。
 だからあなたが救われていることは、どんな宝よりも、最高のものをもらっているのですよ。その価値を見出した人は、全財産を 売り払ってでもそれを買うというたとえを、イエスはなさっていますよね。それぐらい価値があるのです。世の中のものは、見れば見る程つまらないものばっか りです。私たちの命を救い出すものは何にもないのです。

 今日も沢山の人が、最上稲荷神社に行っています。ばかばかしいでしょ!普段は宗教なんて関係ないと 言っている者たちでも、中学3年、高校3年の、母親、父親は、またその当人も、わざわざ絵馬に願いをかけて、そして普段は全く信仰心も無い者が、今日も 行っている。愚かでしょ。この日本の民は愚かなのですよ。何で神様はあなたを救ったのですか?この日本を救いたい。私たちは救われたのです。この素晴らし い教えを、光のある間に、私たちは光を伝えなければなりません。

今年の目標それは、
「あなたも行って語りなさい。」
恥ずかしいともし思っているのなら、あ なたはクリスチャンじゃない。私たちはキリスト様を誇りとしている。あなたはキリスト者です。福音に生きる、それが私たちの目的です。なぜ伝えるのですか?主を愛するからです。そしてまた、私たちのように人々が変わって欲しいからです。悩みや苦しみから本当に解放されて、真実なものをつかんで欲しいからです。

 あなたに今年、神様は「黙っているな。」
だからいつも、語る機会が与えられる時には、信仰を表しましょう。あなたの性格は、日々死んで下さい。信仰 を表して下さい。あらゆる領域から、沢山の人々が導かれて来て、救われるべき者が残る1年となりましょう。

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